ブロガーズ・コラム
成長なんて存在しない。大事なのは「理想の自分」に近づけているか?
【サイボウズ式編集部より】この「ブロガーズ・コラム」は、著名ブロガーをサイボウズ外部から招いて、チームワークに関するコラムを執筆いただいています。今回はファーレンハイトさんが考える「理想と現実のギャップを埋めることによる成長」について。
みなさま、ゴールデンウィークは満喫できましたでしょうか。意識高くスタートを切った新社会人は5月病、気持ちをあらたに「今年こそはと」考えている中堅の方々も息切れをしてきたころではないでしょうか。
今日は自分が考える「成長する」ことについて書いていこうと思います。
成長="理想の自分"と"現状の自分のギャップ"を埋める行為
意識高い系──これを揶揄(やゆ)する声は(特にネット上では)多い。俺は意識高い系について良い面も悪い面もあると思っていて、ひと言で言うと「自分を律していく姿は素敵。人にそれをアピールするのはダサい」です。
俺の会社の人を見渡したとき、「ダメダメコースでOK」と本音で思っている人はそう多くないように見えます。プライベートを重視している人であっても、世間の人並み以上に仕事にまい進しています(これは会社のカラーもあると思う)。
人それぞれのフェーズで壁を感じ、それを乗り越えようともがいてブレイクスルーしている姿がそこにあります。俺はお世辞にも「二度と来ない今日を精一杯に生きる!」と思う情熱的な人間ではないのですが、人生の局面局面で結果を出すために「成長」を自分に課して、それを成立させてきた自負があります。さて、成長とは何でしょうか?
俺は「成長」を「"理想の自分"と"現状の自分のギャップ"を埋める行為」ととらえています。先日、非常に優秀な友人と話をしていて彼自身の口からもこの言葉が出てきたのが印象的でした。
現状把握、ありのままの自分を認めるということ
当たり前と思うでしょうか? いや、口で言うほど簡単なものではないと思います。漠然としたイメージで「成長したい」と思うのではなく、具体的なイメージのもとに地に足をつけて実行していくということは。
まずは"ありのままの現状の自分を把握すること"が非常に困難です。個人差はあれど、人は誰しも、自分に甘い。現実を直視せずに、自分の解釈で自分をとらえれば、やり過ごせてしまう事実があるから。
対策としては、自分が尊敬できる人にシビアなことを言ってもらうことが一番じゃないでしょうか。ストレートに「最近の俺、どう見える?」で良いでしょう。聞く耳を持つ必要がない人があなたに"親切心のアドバイス"をしてくるかもしれないけど、いちいち惑わされる必要はないです。本音で「この人の言葉は自分に染みる」と感じている人に評価してもらうこと。自分の至っている部分・至っていない部分を切り分けていく。
これはチームワークの観点でも言えることで、自分が出しているアウトプットは必ずしも、チームとしてのアウトプットに貢献しているとは言えないことがあります。これも現状認識のズレと言えます。そのギャップを埋めていくために、チームリード・チームメンバーの客観的な意見を聞くのは非常に有効な手法になります。
俺を含め、多くの人は"他人のせい"にしてしまう。あいつが無能だから上手くいかない。あいつの性格が気に入らない。あいつは俺のことを理解していない……。こうした思考が自分への現状認識を曇らせがちです。
理想の自分を描いて、近づくということ
次に、理想の自分像を描くことの困難さ。遠く壮大な理想は妄想に終わります。容易に達成できる理想は張り合いがありません。
そのあたりの目標設定の調整は自分なりの方法をつかむ必要がありますが、大前提として「こうなりたい」「こうで在りたい」自分を思い描いたときに、ワクワクできることだと思います。「こうであらねばならないから」という強迫観念は辛くなってしまう(ドMを自覚している人はそれでOKだと思います)。
自分を振り返ると、受験時代にキー科目であった英語を学習するとき、大学時代に打ち込んだ英語ディベート、社会人の基礎を作った3年目あたり、有名ブロガーになりたかった数年前、それぞれで「ワクワクできる理想の自分像」を描き、すでに達成している自分をリアルに思い描きながら、日々のやるべきことをこなしていました。
英語ディベート時代には、並み居る強豪大学のディベートをねじ伏せて伝説的なプレゼンテーションで逆転勝ちをキメる想像の自分に酔いながら、毎日通学・通勤中も有名な音源のシャドーイングをしていました。
社会人3年目のころは「自分が発言した内容」がすべて「あいつが言うのならば間違いない」とスムーズに受け入れてもらえる信頼関係を作っている自分を想像し、下調べと資料の作成を入念に行い、休日もひたむきにメールの返信も行い、日々の業務に打ち込んでいました。
有名ブロガーになりたかったころは、自分が文章を書けば数万人がそれを読みに来て、ネット上に突風が吹き荒れることをイメージしていました。それを達成するために「バズる」要素は何かを自分なりに分解して、客観的に自分の文章は何がウリになりうるのかをマーケティング的な観点で意識しながら文章を書くようにしていました。
これらは幸いなことに、おおむね達成することができました。
日々の努力をルーチンワークとして淡々とこなせる優秀な人はけっこういます。うらやましいです。でも、そうじゃない人は自分に酔う工夫をする必要があります。自分のなかにストーリーを思い描いて、その主人公を演じてみるのです。矢沢永吉がベストセラー「成り上がり(角川文庫)」で言っていました。たしかに天才はいます。だけど、天才だってどこかで素材をクリスタライズさせてきたのです。
なりたい理想の自分像に到達するために必要な要素であるか?
理想と現実のギャップの埋め方のアプローチには人それぞれのやり方があります。代表的なものはそれをひとつのプロジェクトとみなして要素を分解し、自分が至っている部分・至っていない部分をマス埋めしていくようなやり方です。
ただし、俺個人の所感としては「総合力」をつける必要はないと思っています。人それぞれ優れている部分と、劣っている部分があります。優れている部分を磨き上げ、劣っている部分は足をひっぱらない程度に磨けば良い。苦手なことを平均以上に向上させるのは、コストパフォーマンスが総じて悪いことが多いからです。勝てる勝ち方を選べばいい。
重要なことは「なりたい理想の自分像に到達するために必要な要素であるか?」です。そこに直結するのであれば、必死に磨き上げる必要があります。そうでない場合には、人になんと言われようがバッサリと切り捨てて構わないでしょう。能力にデコボコがあろうが、アウトプットとして達成できればそれで良いのだから。
そのままの自分でいいはずがない
さて、今日は「成長」をキーワードに書いてみましたが、個人的には成長なんてものは存在しないのではないかな? と考えています。おそらくそれは個人の「変化」でしかないと思います。
「良い変化」であったときに成長と呼んでいるに過ぎないのではないでしょうか。「成長」の対義語は存在しませんが、近いニュアンスは「停滞」ではないでしょうか。(マイナス成長はさておき…)
そして良い/悪いはその人の価値観が決めることだと思います。生きていけば価値観は変わっていく。仕事観も変わっていく。20代・30代を仕事に邁進した人が、思うところがあってそれ以降を緩やかな仕事のペースにすることは「変化」であり、それはその人の人生にとっては「成長」であるのと同じように。
重要なことは「昨日の続きの今日」を生きないということではないのでしょうか。良い変化なのか、悪い変化なのかは現在進行形では分からないことが多い気がするのです。それゆえに「変化していく自分」を恐れないこと、自分自身を硬直させないことが何よりも大事なんじゃないでしょうか。俺自身、ここ2年ほど自分が変化していなかったことに飽きて、次のフェーズに向かおうと頑張っている状態なので、こんな文章を書いてみました。
ちなみに頑張りすぎちゃう人は「ま、いっか」精神がすごく大事だと思います。自分自身を痛めつけすぎないように、どこかで「ま、いっか」精神は持つようにしてほしいなと俺は思っています。
ファーレンハイトさんより 普段はブログ「My Favorite, Addict and Rhetoric Lovers Only」、Web媒体「AM [アム] 」で恋愛・人間関係について書いています。サイボウズ式のブロガーズ・コラムでは、仕事・チームワークにおける他人との関係性について何らかの価値を提供できたらと思っています。
イラスト:マツナガエイコ
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執筆
撮影・イラスト
松永 映子
イラストレーター、Webデザイナー。サイボウズ式ブロガーズコラム/長くはたらく、地方で(一部)挿絵担当。登山大好き。記事やコンテンツに合うイラストを提案していくスタイルが得意。