働き方・生き方
50代突入。これからどう生きる? 大阪大学、同じ下宿先から歩んだ30年とキャリア選択──MBSアナウンサー 西靖×サイボウズ 青野慶久
関西エリアで活躍する毎日放送(MBS)のアナウンサー・西靖さん。実は、サイボウズ代表・青野慶久と同い年で、同じ大阪大学に通い、同じ下宿先に暮らしていたのです。
当時はつながりがなかったというふたりが、30年ぶりに大阪大学の豊中キャンパスがある街、石橋阪大前の思い出の居酒屋「ごん兵衛」に集って乾杯。キャリアの選択や転機をふり返りながら、これからの50代のあり方について語り合いました。
大阪大学、同じ下宿先「緑荘」で過ごした青春時代
青野
いやあ、懐かしい。大阪大学生行きつけの居酒屋「ごん兵衛」で、西さんと乾杯ができるなんて。
西
ほんとに。お久しぶりの「ごん兵衛」で、乾杯!
青野
乾杯! 学生時代、僕は「フロンティア」っていう社会福祉系のボランティアサークルに入ってて、メンバーとよく「ごん兵衛」に来てました。
西
僕は陸上部で大学から棒高跳びをしていたんですが、体育会系の激しい飲み会をここでしてましたねえ。
青野
当時はつながってなかったけど、絶対会ってますよね。
西
絶対会ってますよ、僕らの「緑荘」で。
青野
同じ下宿先、ひとつ屋根の下で暮らしていたんですもんね。家賃が当時21,000円、途中で値上がりしたけどそれでも23,000円。僕は2階の階段上がってすぐ、3分100円のコインシャワーの横の部屋で……。
西
僕は1階の11号室。コインシャワーを使ってましたが、表札に「青野」って書いてあった気がするんですよ。
青野
そこにいましたから。1階の奥に洗濯機があったの覚えてます?
西
あった! アメフト部のヤツも緑荘には住んでて、彼らが使ったあとは、砂まみれで最悪なんですよね(笑)。今日ね、写真を持ってきたんです。
青野
まじですか!
西
6畳1間の汚い部屋。押し入れの襖を取って、テレビとコンポを置いてました。狭いのによく友だちが転がり込んで寝てましたね。
青野
僕は引きこもりなんで「緑荘」に友だちはいなくて、すれ違うだけでした。
西
僕はさみしんぼうで友だちを増やしたいタイプなので、大学1年時は中央環状線沿いにある民間の学生寮に住んでたんですが、2年からその学生寮の友だち3人と「緑荘」に引っ越してきたんです。
青野
そうだったんですね。
西
青野さんは工学部で途中から吹田キャンパスに移ったのに、4年間「緑荘」にいたんですよね?
青野
キャンパスから遠くなったけど、4年間「緑荘」にいました。居心地がよかったんでしょうね。安いし。
「Windows95」に未来を見た。日本中のチームの働き方が変わる!
西
大阪大学の工学部って、結構な割合で大学院に進むと思うんですが、青野さんはどうしてすぐに就職したんですか?
青野
勉強がそんなに好きじゃなかった、というか早く社会に出たかったんですよ。もともとコンピューターオタクで、工学部に入ったけど、データベース理論を突き詰めたかったわけではなかったので。
西
それで松下電工に技術職で入社された。
青野
入社して3年3ヶ月、球場にある大型のスコアボードを売る仕事をしていました。技術担当として営業といっしょに西宮球場とかに行くんですが、1台何億円もするんで、なかなか売れないんですよ。
西
僕らが就職した時代は、会社を辞めて起業するってことがいまほど盛んではなかったですよね。大企業に就職して、なんで辞められたんですか?
青野
コンピューターオタク少年が松下電工に入って、PCを使えない人がいっぱいいるなあと思っていたその年に「Windows95」の誕生ですよ。
西
おお! そうだ!
青野
瞬く間に広がって、みんなが指を震わせながら「青野くん教えて!」とPCを叩くようになった。そこにインターネットが入ってきて、アメリカのHPが見られる! Yahoo!で検索ができる! すごいことが起きている! と興奮しました。
西
僕らが社会に出た95年前後は、まさにインターネット黎明期でしたよね。
青野
1994年に誕生したアメリカのウェブブラウザ「ネットスケープ」の創業者は、1年後に大富豪になった。これはきたぞ、と。この技術は、いつか社内の情報共有でも使われる。そのツールを開発したら、僕も大富豪になれる! って未来が見えて。当時25、6歳だったので、半ば勢いで気づいたら会社を辞めてました。
西
インターネットの黎明期って、世界中とつながるってみんな意識が外に向いてましたよね。青野さんはどうして、いまサイボウズがやっている社内のコミュニケーションに目が向いたんですか?
青野
僕はスコアボードの技術営業だけでなく、部門内のネットワークを管理する仕事もしていて、当時の松下には「イントラネット」という社内掲示板のようなものがあったんです。
西
イントラネット、懐かしい!
青野
社内のネットワーク環境を整えることで、メンバーの働き方が変わっていくのを見るのがうれしかったんですよねえ。この技術はチームワークに貢献するって。
西
その頃から「チームの働き方」に関心があったんですね。
青野
そうですね。それに当時の僕は下っ端なんで、営業先から電話を受けて、上司の予定をホワイトボードで確認して伝えるってことをしていて。「このホワイトボードを営業先に見せられれば、この仕事はなくなるのに」って思ったんです。
西
なるほど......! そこでひらめいたんですね!
青野
探してもいいソフトがなかったんで、自分たちでつくって売ろうと。開発できたら、日本の企業にあるホワイトボードの数だけ売れるぞ、日本中のチームの働き方が変わるぞって。
「阪神淡路大震災」の現場で得た、自分の仕事の背骨
青野
西さんは大学卒業後、どうして毎日放送に就職されたんですか?
西
マスコミに行きたかったんですが、僕もあまり勉強が好きじゃなかった……というか棒高跳びに夢中でね。就活でわざわざ東京に行くこともなく、なんとかマスコミに潜り込みたいという一心で、毎日放送のアナウンサー職に受かりました。
青野
それで大阪大学法学部からアナウンサーに?
西
ただ、放送局の報道記者になりたいとは思っていましたが、アナウンサーで採用されるとは思ってなくて。春に入社してから秋ごろまで会社の地下のセミナー室でひたすら「あ・え・い・う・え・お・あ・お」とか練習するわけですけど、学生時代にアナウンスの勉強をしてないから下手くそでね。
青野
さすがプロですね。声に張りがある! それにしても研修、長いですね。
西
報道部に配属されて火災現場のレポートをする同期を横目に、こんなとこにいないで早く現場に行きたいってずっと思っていました。いま思えば、下手くそかつ生意気なアナウンサーだったんです。
でね、1995年の入社1年目、青野さんが「Windows95」に魅せられていたときに僕にも転機がありました。阪神淡路大震災です。
でね、1995年の入社1年目、青野さんが「Windows95」に魅せられていたときに僕にも転機がありました。阪神淡路大震災です。
青野
忘れもしない1.17。あの日は僕も衝撃を受けました。会社のロッカーが倒れて、テレビをつけたら阪神高速が崩れていて、わけがわからない。
西
僕が初めてちゃんと経験した現場は、阪神淡路大震災だったんです。入社1年目の若造がね、「メディアには伝える使命がある」「これが僕のやりたかったことだ」と、しょーもない自己実現の欲求と青臭いドライブ感を持って現場に行くわけです。
青野
前のめりですね。
西
そう。でもね、避難所の体育館でパジャマ姿で毛布にくるまってガタガタ震えている人のところに、スーツを来てライトを煌々とたいてカメラを向けて「なにか困りごとはないですか?」って取材に行っても、怒られるわけですよ。「あっち行って」とか言われて。使命感に燃えていたのが、ポキッと鼻を折られました。
そうなると今度は、体育館の床を歩いてギシって音がするだけで「ごめんなさい」って気持ちになるんです。
そうなると今度は、体育館の床を歩いてギシって音がするだけで「ごめんなさい」って気持ちになるんです。
青野
ああ。僕も当時ボランティアで神戸に入りましたが、辛かったです。
西
それから15年後に東日本大震災の現場も経験しましたが、「取材される側はいやだろうな」って気持ちをもてるかどうかの差は大きかったです。傲慢だった新人のうちに打ちのめされていてよかったなと。
青野
貴重な経験だ……。
西
それからね、当時現場に行かないときは、ラジオのスタジオでひたすらライフライン情報を読み上げていたんですよ。その情報の中に、銭湯の無料開放のお知らせがあったんです。
青野
自宅が崩壊した被災地の方はお風呂に入れないですもんね。
西
そうなんです。でね、震災の翌年、高校野球のアルプススタンドの取材をしていたときに、ひとりのおじいちゃんが声をかけてくれて。
「あんたが西さんかい。震災のとき、ラジオでほれ、お風呂のこと言うてくれたやろ。あれでわし、1週間ぶりにお風呂に入れたんや。ありがとうな。ずっと伝えたいと思うてたんや」って伝えてくれたんです。
「あんたが西さんかい。震災のとき、ラジオでほれ、お風呂のこと言うてくれたやろ。あれでわし、1週間ぶりにお風呂に入れたんや。ありがとうな。ずっと伝えたいと思うてたんや」って伝えてくれたんです。
青野
いやあああ……痺れますね。
西
号泣しました。いまでもこの話をすると涙が出てくる。
青野
そのおじいさんにとっては、銭湯の情報が輝いて見えたんでしょうね。
西
ものの価値って自分が勝手に決めることではないし、どんな仕事も尊い。現場に行くことがかっこいいと思っていた自分を恥じました。仕事のやりがいをどこに置くか、その答えを見つけたような手応えがあって。
あの経験がなければ、自己実現を追い求めてやりがいを失って、アナウンサーを辞めていたかもしれません。
あの経験がなければ、自己実現を追い求めてやりがいを失って、アナウンサーを辞めていたかもしれません。
青野
太いバックボーンですね。
デジタルな価値観をアップデートし、フィジカルな価値観のバトンを渡す
青野
それにしても感慨深いですね。同じ年に大阪大学を出て、働き始めてすぐ、時代の転換期にそれぞれ影響を受けて、30年。ふり返ってみると、自分の価値観も含めて、変化は大きかったと思います。
西
いま僕ら52歳でしょう。これからの50代はどう過ごします?
青野
僕としては、ようやくおもしろい時代になってきたという感覚なんです。
西
ほう。
青野
会社でグループウェアを使うことが当たり前になって、僕らが提供しているものがインフラになりつつある。いつどこにいても、チームで仕事ができて、より自由な働き方ができる。
1995年にこんな未来になると予測して、なかなか来なくて、やっと思い描いた社会になってきたな、と。
1995年にこんな未来になると予測して、なかなか来なくて、やっと思い描いた社会になってきたな、と。
西
青野さんは30年前にこの未来を見ていたんですね。
青野
インターネットを通じて誰もが情報を受発信できる時代、見えない権力に打ち負かされることなく、可視化された状態でおかしいと声を上げられる。企業でも社会でもチームワークが働くようになっているというか。僕はこういう時代を待っていたんです!
西
おもしろい時代になってきたというのは僕も同感です。ただ、僕は情報を伝える現場にいる人として、誰もが発信できる時代に、取材する体力をどう維持するかっていう課題感をもっています。
青野
取材する体力?
西
発信源は無数にある一方で、地道にひとつのテーマを追ったり、ものづくりをしたり、どうしても時間とお金がかかる世界がある。机の前でキーボードを叩くだけでは得られない情報や、フィジカルな体験をどう確保していくのか。
青野
なるほど。本当にそうですね。粘り強く現場で取材をしてくれた人たちがいるから、その情報を拡散できる。一次情報はAIにも書けないわけで。
西
誰かが粘り強く取材をしないと、いまネット上で巻き起こっている議論の起点が生まれないんですよね。
青野
誰もが情報を拡散できるからこそ、これからの時代は一次情報を取材する力がより重要な意味をもつようになりますね。
西
50代になって、自分が現場に行く機会は減ってきました。それこそチームとして、放送局の若い世代に、取材が大事だよってバトンをどう渡すかを考えています。
青野
これからの50代は、若い世代のデジタルな価値観に触れて自分をアップデートしながらも、培ってきたフィジカルな価値観のバトンを次世代にどう渡すかが肝になりそうですね。ますます、楽しみましょう!
企画・編集:深水麻初 執筆:徳瑠里香 撮影:高橋団
サイボウズ式YouTubeで取材の様子を公開中
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執筆
撮影・イラスト
編集部
高橋団
2019年に新卒でサイボウズに入社。サイボウズ式初の新人編集部員。神奈川出身。大学では学生記者として活動。スポーツとチームワークに興味があります。複業でスポーツを中心に写真を撮っています。
編集
編集部
深水麻初
2021年にサイボウズへ新卒入社。マーケティング本部ブランディング部所属。大学では社会学を専攻。女性向けコンテンツを中心に、サイボウズ式の企画・編集を担当。趣味はサウナ。