1on1、雑談タイム──これらが失敗に終わるのはなぜか
話題の人気ブログ「おい、」シリーズの著者で、ソフトウェアエンジニアのnwiizoさんによる新連載「生産性を取り戻せ」。この連載では「仕事の生産性」をあらゆる角度からとらえ、チームで生産性を高めていくためのヒントを探っていきます。
第4回は「組織において“善意”が毒になるとき」について考えます。
はじめに
あるリーダーが悩んでいた。
「チームの心理的安全性を高めよう」と決意したらしい。1on1を週次に増やした。金曜の午後に雑談タイムを設けた。Slackに「何でも相談チャンネル」を作った。チームの全体ミーティングで「何でも言っていいよ。ここは安全な場所だから」と繰り返した。
3ヶ月後、チームは前より息苦しくなっていた。
週次の1on1が「義務」になっていた。話すことがない週も30分埋めなければならない。「何でも言っていいよ」と言われるほど、「何を言えばいいかわからない」と感じるメンバーが増えた。善意で始めた取り組みが、新たな「見えない負荷」になっていた。
善意は嘘ではない。このリーダーは本当にチームのことを考えていた。しかし、善意だけでは、構造を変えられなかった。むしろ、善意が新しい構造的問題を作っていた。
他人事として聞いていられる話ではありませんでした。私自身、似たような失敗を何度もしています。善意があれば、なんとかなると思っていました。しかしそうはならないのです。
ならないのはなぜか。この問いに向き合ってようやく見えてきたのは、善意と結果の間には「設計」という層があるということでした。
良いチームを作るのは「良い人」ではない
「良い人がいれば良い結果が出る」──私たちは無意識にそう信じています。冒頭のリーダーも、たしかに「良い人」でした。
しかし、この前提は間違っています。良い人の集まりでも、制度が悪ければ悪い結果が出ます。逆に、普通の人の集まりでも、制度が良ければ良い結果が出ます。つまり、チームの結果を決めるのは「個人の善悪」ではなく「制度の設計」です。
ここで1つ断っておきます。2〜3人の立ち上げ期や、数週間で解散するPoCチームでは、この話はあまり効きません。制度を整える前に終わるからです。制度論が効くのは、同じ顔ぶれで数ヶ月以上続くチームです。この記事が想定しているのはそちらです。
組織改善の議論でよく見かける誤りがあります。組織を機械のように捉え、部品を入れ替えれば出力が変わると考える発想です。「このチームにシニアを1人入れれば生産性が上がる」「プロセスをこう変えれば効率が改善する」。工場の生産ラインなら正しいかもしれません。
しかし、チームは機械的ではありません。チームに人を加えると「組織図」は変わりますが、組織の課題は解決しません。
冒頭のリーダーも「週次の1on1」「雑談タイム」「相談チャンネル」と、仕組み自体は作っていました。それでも息苦しさを生んだのは、仕組みの「形」はあっても「中身」が決まっていなかったからです。
1on1で何を話すのか。相談チャンネルで何を相談すればいいのか。雑談タイムには何を持ち込まないと約束するのか。そこが空白のまま、器だけが置かれていた。「器を置けば中身が自然に湧いてくる」と期待していたのです。
しかし、空っぽの器は「何を入れるか」を毎回個人に考えさせる負荷に変わります。冒頭で「話すことがない週も30分埋めなければならない」という声が出たのは、まさにこれです。
善意が機能する「設計」とは
人を入れ替えても変わらなかった。では、何を見直せばよかったのか? 答えは、市場経済が長年向き合ってきた失敗のパターンと、驚くほど似ていました。
市場が健全に機能するには、いくつかの前提条件が要ります。
全員が同じ情報を持っていること。ある人の行動の結果が他の人にも見えること。みんなで使う資源がきちんと供給されること。この前提が崩れないように、社会は法律や規制で矯正してきました。つまり倫理とは、こうした失敗を構造的に補正する設計のことだと考えると、話が一気にチームに繋がります。
チームで「失敗」が起きる構造も同じです。情報が偏り、マネージャーだけが全体を把握している。ある人の残業が、別のメンバーの作業を気づかぬうちに上書きする。一部の人の努力に、全員が無自覚に寄りかかる(ただ乗り、フリーライダー)。
これは個人の善悪ではなく、チームの設計の問題です。改善するには「善意」ではなく、失敗を補正する「設計」が必要です。
ただし、市場とチームには決定的な違いがあります。
市場には、価格や売上というフィードバック機構があります。それらの指標が下がればすぐに問題が分かります。しかし、チームの「失敗」はそうはいきません。じわじわと、メンバーの疲弊やモチベーションの低下という形で、数ヶ月かけて表面化します。
だからこそ、チームの制度設計は、市場の制度設計より難しい。フィードバックが遅い領域で、構造の歪みを早期に検知する仕組みが必要になります。
冒頭のチームリーダーに戻ります。このリーダーは「良い人」でした。善意も本物でした。しかし、善意を制度に落とし込めていませんでした。「何でも言っていいよ」は美徳の表明であって、制度の設計ではありません。
善意だけあっても、それを形にする仕組みがなければ、個人のがんばりで終わります。「この場では何について話すか」「批判はどう行うか」「発言しないことも許容されるか」といった具体的なルールがあって初めて、善意は機能するのです。
善意の押し付けも放任主義も機能しない
では、善意を制度に落とし込むには、具体的にどうすればいいのでしょう? よくあるのは次の2つのアプローチですが、どちらも正しくは機能しません。
善意をそのまま持ち込む「天使の道」──日常の道徳感覚をそのまま組織に持ち込むこと。「みんなで仲良く」「助け合おう」「思いやりを持とう」。善意の押し付けです。冒頭のリーダーがやったのはこれです。家庭や友人関係のルールを、チームにそのまま適用しました。しかし、チームは家族ではありません。チームには目的があります。目的に向かって機能するための構造が必要です。
結果さえ出ればいい「悪魔の道」──法律やルールに違反しなければ何でもOKという放任主義。「結果さえ出せば、やり方は問わない」。個人KPIを与えて、あとは放置します。第2回の連載で見た「協力の破壊」を生むような構造です。
現実のチーム運営は、この2つの極端の間にある「制度設計された中間地帯」にあるべきです。
善意を前提としつつも、善意だけに頼らない。ルールで縛りつつも、ルールだけで動かさない。言い換えれば、「頼れる善意を仕組みに織り込み、頼れない部分をルールで補強する」という発想です。
たとえば、「お互いにフィードバックしよう」は天使の道です。「フィードバックの頻度を個人KPIにしよう」は悪魔の道です。制度設計された中間地帯とは、具体的なルールを持った仕組みです。
月に一度、同僚同士の相互評価(ピアレビュー)の場を設けます。フィードバックは行動に対してのみ行い、人格には触れません。受けた側がアクションを決めます。
しかし、こう書くと制度設計が万能に見えますが、そうではありません。
制度には必ずコストがあります。ルールが増えれば柔軟性が減ります。仕組みが増えれば維持の負担が増えます。制度設計の罠は、制度を作ること自体が目的になることです。第2回の連載で見た「計測が目的になる」と同じ構造がここにもあります。制度は手段であって目的ではありません。
「制度」だけでは善意が空回りする
ここまで読んで「人の善意を制度で管理するなんて冷たい」と感じる方もいるでしょう。しかし、制度は善意を構造化するものです。人間を信頼しないから必要なのではなく、「この人が辞めても残したい良さ」を保存するための仕組みです。
冒頭のチームリーダーを思い出してください。善意から1on1を設計しました。そのリーダーが異動したら、1on1は消えます。善意が個人に属しているからです。しかし、「月次の構造化されたフィードバック」が制度として存在すれば、リーダーが変わっても残ります。
制度に埋め込まれた善意は、人が変わっても残ります。 個人の善意に依存するチームは、その人が抜けると崩壊します。制度に善意を埋め込んだチームは、誰が入っても機能します。
ただし、ここで慎重に区別すべきことがあります。「制度化する」ことと、「善意を埋め込む」ことは、似ているようで別です。週次の1on1を義務化しても、それが「誰のための時間か」を決めていなければ、制度は空回りします。冒頭のチームリーダーがまさにそれでした。
1on1には奇妙な非対称性があります。マネージャー側にいると、自分の1on1は「まあ、それなりにうまくやれている方だろう」と感じます。月曜の夕方、1on1を終えて自席に戻り、「今日はいい話ができた」と手応えを感じる。
ところが、同じ時間を部下の側から眺めると、驚くほど違う景色が残っています。「聞かれていたのは自分の状況ではなく、上司が聞きたかったことだけだった」「結論は最初から上司の中で決まっていた」——そういう声は、退職時や転職後の雑談で、ぽろりと漏れてきます。
マネージャーにとっての「いい話ができた30分」が、部下にとっては「上司の自己確認に付き合わされた30分」として記憶されている。同じ時間のはずなのに、残る感覚がまるで違う。この評価ギャップは、善意が空回りする構造の典型です。
1on1が「マネージャーのための時間」になっているとき、部下にとってそれは義務でしかありません。制度だけあっても、注ぎ込む善意がなければ、ただのルールになって形骸化してしまいます。
制度は、閉ざされた回路を外から強制的に開ける仕掛けです。月次のアンケートで部下の実感が自動的に集まる。評価の指標が「マネージャーの手応え」ではなく「部下の受け取り方」になる。個人の内側に「疑うモード」を期待する代わりに、組織の外側に「疑いを強制する場」を置きます。
善意では辿り着けないところへ、制度が連れていってくれます。制度の本当の役割は、人を縛ることではなく、人が一人では入れないモードに連れていくことです。
「間違うかもしれない」という前提を置く
では、「疑うモードに人を連れていく制度」とは、具体的にどんな形をしているのか。
私がこれまで、技術顧問や業務委託でいろいろなチームや組織に関わってきた中で、「ここは疑う力が組織として機能している」と感じた現場には、共通する特徴が3つありました。n=数十社の観察で、統計的な話ではありません。それでも、繰り返し目にしたものだけを書きます。
①悪い情報が自然に上流へ流れる経路があること
障害の予兆、違和感、「なんか変だな」という感覚──こうした言語化しにくい情報ほど、組織の中で最初に消えます。「こんな小さなことを報告していいのか」と躊躇させる雰囲気だけで、情報は止まります。
私が印象に残っているのは、障害報告の件数が「多い」ことを良しとするチームでした。小さな違和感まで報告され、小さなうちに拾い上げられる。報告件数の多さを誇れる組織は、実は疑う力が一番強い組織でした。逆に「うちは障害が少ないです」と自慢する組織ほど、大きな障害が起きたときの驚きが深い。
②「前にも見た」で片付けない習慣があること
熟達した人ほど、目の前の現象を過去のパターンに当てはめて即断します。効率という意味では正しい。しかし、その即断が新しい兆候を見落とさせる。私自身、何度もこれをやりました。「ああ、あのパターンだろう」と判断してしまって、後から「今回は違った」と気づく。
この罠を避けている組織では、熟達した人ほど「今回は何が違うか」を自分から問いに行っていました。効率と引き換えに、疑いの余地を確保する。
しかも、これは個人の性格ではなく、組織の習慣として共有されていました。新人がベテランに「それ、前のケースと同じですか」と無邪気に聞ける文化。ベテランが「言われてみれば、ちょっと違うな」と立ち止まれる文化。2つで1セットです。
③上の人が「自分は間違うかもしれない」と口に出せること
これが決定的でした。3つの中で一番効くのが、これです。
制度を整えても、ルールを書いても、トップが信念を守るモードに固まっていると、その組織に新しく入った人は数ヶ月で同じモードになります。空気が人を染めます。逆に、トップが率直に「自分もよく分かっていない」「あの判断は間違ったかもしれない」と言える組織では、下の人の言葉が変わります。
「実は気になっていることがあって」「ちょっと確認したいんですが」という声が増えます。上の人が先に謝ることで、下の人が安全に疑えるようになる。これは制度というより、制度を運用する人の姿勢の問題です。しかし、その姿勢を「運」に任せず、採用や昇進の基準に組み込めるなら、それはもう制度の一部です。
これら3つに共通するのは、「自分たちは間違うかもしれない」という前提が、個人ではなく場の側に埋め込まれていることです。
チームでも、組織でも、そこに埋め込まれた前提が人の振る舞いを引き出します。個人の善意や熟練に頼るのではなく、構造として「疑う力」が埋め込まれている。これが「制度に善意を埋め込む」ということの具体像です。
制度が善意を奪うこともある
ここまで、善意と制度の関係について述べてきました。善意だけあっても、それを形にする仕組みがなければ、個人のがんばりで終わります。制度だけあっても、注ぎ込む善意がなければ、ただのルールになって形骸化する。両方が揃って、ようやくチームは機能します。
ただし、制度が善意を奪う瞬間もあります。過剰なルールが「この程度のことも自分で判断させてもらえないのか」という不信感を生むとき、善意は制度に流れ込む前に、メンバーの中で静かに冷めていきます。
私自身、これを身をもって経験しました。以前あるチームで制度を整備しすぎた経験があります。コードレビューのルール、会議のフォーマット、意思決定のフローなど、すべてを明文化しました。2ヶ月後、メンバーに言われました。「この程度のことも自分で判断させてもらえないんですか?」。
「個人に依存しない構造」は、裏を返せば「個人の裁量を制限する構造」でもあります。制度が強すぎれば、メンバーの自律性が奪われます。
第1回の連載で見た「トップダウンの意思決定」が制度の名のもとに正当化されます。制度設計には常にトレードオフがあります。自律性と予測可能性のバランスを取り続けることが、制度の運用です。設計した瞬間に完成するのではなく、使いながら調整し続けるものです。ソフトウェアと同じで、制度にもメンテナンスが要ります。
あなたのチームの制度は、最後に誰が、何のために見直したか、答えられるでしょうか。答えられないなら、その制度はすでに形骸化に向かっているかもしれません。
おわりに
冒頭のチームリーダーに戻ります。
「何でも言っていいよ」は善意だった。しかし、善意だけでは、構造を変えられなかった。その後、このリーダーは制度を設計しました。「何でも言っていいよ」を、「この場では今月の課題について話す。批判は歓迎するが、人格への攻撃はしない。発言しないことも選択肢として認める」に変えた。
変えたのは、空気ではなくルールです。「安全な場所だから」という抽象的な宣言ではなく、「何について」「どのように」「何をしないか」を具体的に決めた。制度化した。
空気が変わった。正確に言えば、空気に依存しなくなった。リーダーの機嫌にかかわらず、同じルールで場が運営される。メンバーは「今日のリーダーの顔色」を読まなくていい。ルールが安全を保証しているからです。
ただし、この制度が機能し続けるかは別の問題です。先ほど「制度に埋め込まれた善意は人が変わっても残る」と書きましたが、何もせずに残るわけではありません。半年後にメンバーが入れ替わったとき、ルールの「なぜ」を知る人がいなくなれば、ルールは形骸化します。制度には「なぜこのルールが存在するのか」という文脈の伝承が不可欠です。
制度を設計する視点を手に入れると、チームの見え方が変わります。「あの人が良いリーダーだから」ではなく「あのチームの制度が良いから」と考える。個人ではなく構造を見る視点が、制度設計の領域にまで拡がりました。
善意は、制度に預けたほうが、長く生きる。ここまでが今回の話です。
ただし、制度は「何のために」設計するのかに答えなければ、また形骸化します。最終回では、最も根本的な問いに踏み込みます。あなたのチームは、何のために存在するのか。
参考資料
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執筆
nwiizo
インフラ運用の現場で鍛えられ、現在は株式会社スリーシェイクのソフトウェアエンジニア。技術書翻訳を複数手がけ、nwiizoとしてブログ「じゃあ、おうちで学べる」を運営中。
編集
深水麻初
2021年にサイボウズへ新卒入社。マーケティング本部ブランディング部所属。大学では社会学を専攻。女性向けコンテンツを中心に、サイボウズ式の企画・編集を担当。趣味はサウナ。