野中先生、なぜ経営学の道に進まれたのですか? 賢人の原点を探る――野中郁次郎×青野慶久
ナレッジマネジメントという言葉の生みの親であり、米ウォール・ストリート・ジャーナル紙で「世界で最も影響力のあるビジネス思想家トップ20」にビル・ゲイツ、フィリップ・コトラー、マイケル・ポーターらと並んで、日本人で唯一ランクインされた日本の賢人― サイボウズ式に大御所の登場となりました。「知識創造理論」を世界に広めた野中郁次郎先生です。
昨年サイボウズのシンポジウムでの講演をきっかけに交流をもつようになりました。先生の著書に経営者としての心得を学んだサイボウズ社長の青野慶久が、先生ご自身の学びの原点や独自の理論が生まれた背景、さらにはリーダーに求められる能力などについて話を伺いました。1回目は先生ご自身の学びの原点について。
やる気のなかった学生時代
「サイボウズ式」をご覧いただいている皆さんは20~30代の若いビジネスパーソンが多いのですが、マネジメントの世界で日本にもこんなすごい賢人がいることを、若い皆さんにもぜひ知ってほしいと思い、先生のお話を伺いにまいりました。
私は賢人なんかじゃないですよ。(笑)
いえいえ。私も先生の著書から多くの勉強をさせていただいています。まずは経営学の道へ進まれる先生の学びの原点をお聞かせください。
10代の頃から経営学を志向していたわけではありませんでしたが、実家が商売をやっていたことから、高校は商業高校を卒業しました。ただ、この卒業には少しばかり経緯がありまして。というのは、当時、商業高校を卒業するには簿記3級と珠算3級を取得することが必須条件だったんですが、両方ともどうにもやる気になれず、なかなか取得できませんでした。それどころか、珠算は5級も落っこちる始末でした。唯一興味を持って覚えたのは、複式簿記の創始者がイタリア数学者のルカ・パチョーリという人だと。
創始者に興味を抱かれるあたりは先生らしいですね。しかし、5級を落ちるとは(笑)。ではどうやって卒業されたのですか。
3年生になる際に先生が心配して、このままじゃ商業コースを卒業するのは難しいから、必須条件のない進学コースへ行けと指導され、そこから慌てて大学受験に向けて勉強を始めました。で、いくつか受験して早稲田大学の政経学部に入ることができましたが、当時の感覚としては、これでようやく高校を卒業できるという思いのほうが強かったかもしれません。
得意分野が試験に出て無事就職
日本を代表する賢人が、高校を卒業するのに苦労されたとは…。でも集中的な受験勉強で早大の政経学部に入られたのはさすがですね。
たまたま受かったんですが、進学コースへ行けと指導してくれた先生は、お前でも受かるのかと、びっくりしていました(笑)。
(笑)。早大政経学部の出身者は政治やマスコミ関係者が多いと聞きますが、先生は富士電機製造(現・富士電機ホールディングス)に就職されましたね。政治やマスコミ関係はご興味なかったのですか。
そういう意識はあまりなかったですね。大学ではとくに政治学を専攻したんですが、これまた高校と同じようにあまり興味が湧かず、勉強にも身が入らなかったのを覚えています。そしていよいよ就職となったとき、実は最初に入社試験を受けたのは朝日新聞社でしたが、結果は補欠合格。合格したものの入社時期は欠員次第だったので、他を探すことにしました。富士電機へは実兄の関係を通じて、入社試験を受ける機会を得ました。強運なことに、論文試験の内容が、唯一大学の勉強のなかで強い関心を持っていたテーマと一致したんです。まさにストライクゾーンのテーマが試験に出たと。そんな強運もあって、なんとか就職することができました。
9年間の業務経験後、一発奮起して米国留学
先生の半生記はこれまでにもいろいろなところで拝見しましたが、就職されるまでのお話をお聞きできたのは初めてです。しかも日本を代表する賢人でも、学生時代はさまざまな葛藤、というか落ちこぼれた部分があったとは・・・。そして、就職された富士電機時代が、その後、経営学の道に進まれる礎になられたのでしょうか。
そう言えるでしょうね。富士電機では9年在籍していましたが、その間にさまざまな経験をさせてもらいました。とくに当初の3年間務めた工場の勤労担当は、人事、総務、教育なども兼務し、製造現場に密着した仕事を経験することができました。一方で、勤労担当ながらも組合の執行委員にも選ばれました。この組合活動も貴重な経験でした。その後、本社に異動してからも教育担当として、慶応大学のビジネススクールなどと協力して幹部研修を担当しました。当時はまだ幹部教育を実施している企業はほとんどなく、新しい取り組みにチャレンジするという意気込みでした。そんな中でマネジメントに興味を持ち始めた私は、志願して営業やマーケティング、関連会社の財務・経営企画を務め、9年間でほぼ全ての業務を経験することができました。
それはまた密度の濃い経験ですね。その後、米国へ留学されていますが、そんな充実した会社生活を送っておられた中で、なぜ留学したいと? 年齢的にも30歳を超えておられたんですよね。
32歳でした。米国へ行きたいという気持ちは以前から漠然とありましたが、会社の中でいろいろな経験をするうちに、米国でマネジメントをしっかりと勉強したいという思いが強まったのが、留学の動機です。それともう1つ、米国への思いということでは、忘れられない原体験があります。私は小学4年生のときに終戦を迎えましたが、終戦間際に疎開先の静岡で米海軍グラマン戦闘機の機銃掃射を受け、九死に一生を得た経験があります。あのとき、低空飛行しながらこちらに狙いを定めているパイロットのニヤリと笑った顔が忘れられず、いつか米国にリベンジしてやると心に誓いました。この思いが米国留学の動機の底流にあるのは間違いないでしょうね。
米国留学に向けては用意周到だったんですか。
全く用意周到じゃありませんでした。すでに結婚もしていましたが、米国には何のつても保証もなく、お金もありませんでした。実は留学前に共稼ぎで資金を貯めたんですが、その大半を知り合いの証券マンに預けたところ、ほぼ全額を株投資で失ってしまいました。愕然としましたが、それでも留学する気持ちは変わりませんでした。今から考えると無謀なスタートですよね。
全額!?(笑)留学先はどのように選ばれたんですか。
実は、いくつかのビジネススクールに願書を出した中で、最初に入学許可が来たのがカリフォルニア大学バークレー校経営大学院だったんです。 場所もよくわからないまま、「とにかくこれで留学できる!」と思ってすぐに決めてしまいました。留学先はなんとか決まったけど、お金がない(笑)。 そんな私を見かねた富士電機の当時の人事部長が、会社を休職扱いにしてくれたうえ、無利子で50万円貸してくれました。また、友人たちもカンパしてくれました。皆さんの支援を受けて、1967年3月、私は富士電機を休職し、妻とふたりで船に乗り込み、アメリカに向かいました。 先行きは見通せないままでしたが、今から考えると、学者としての第一歩を踏み出したのはこのときだったと思います。
賢人が、実は落ちこぼれ学生だったというのは、なんとも意外でした。留学費用がない、といって貸してくれる上司がいるというのも、本当に強運というか、人徳のなせる業のような気がします。 次回は、野中先生が提唱されている「SECI(セキ)理論」について、普段の仕事のなかでどのように考えればいいのか、先生と青野が議論します。野中先生いわく、「SECI理論」とは、「とにかくモヤモヤを吐き出すこと」とのこと。吐き出したことによる効果は結構大きいもののようです。どうぞお楽しみに。 (写真撮影:橋本 直己)
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