あのチームのコラボ術
地方新聞は「ハイパーローカルメディア」に進化する 岩手県・大船渡市「東海新報」のチャレンジ
東日本大震災の発生から2年が経とうとしていた今年の初め頃。サイボウズ式編集部メンバーの大川から「地元で色々な活動に取り組んでいる人たちをサイボウズ式で取材したい」というリクエストをもらいました。大川は岩手県大船渡市の出身。その提案を受け、現地で活躍する人たちがいまどんな働き方をしているのか、大川と共に取材に行ってきました。 まず最初は、地元のニュースを今も変わらず毎日伝えている新聞社「東海新報社」に伺いました。
※内容は取材した2013年3月15日当時のものです
地元のメディアで働くということ
まずは東海新報の概要を教えてください。
大槻
岩手県の気仙地方、大船渡・陸前高田両市と住田町をエリアにしている地域紙で、8ページ立ての朝刊を発行しています。現在は約14,000部を発行。震災前は17,500部だったので、大体8割ぐらい戻ってきています。掲載している内容は地域密着のニュースということで、ほのぼのとした内容が中心です。
お二人とも、小さい頃から東海新報を見て育ったんですか?
大槻
私の祖父が小学校の教員だったんですが、学校行事を色々と取材してもらうということも多かったようで、家に東海新報の縮刷版がいっぱいありました。そういう環境で育ったので、新聞と言えば他の大手新聞よりも東海新報でした。
具体的にはいつ頃から東海新報で働こうと考えていたのですか?
大槻
関東の大学に進み、就職はメディアを希望していました。当時は色々なTV局のお話を聞きました。しかし、地元に戻る一番きっかけが、北海道から出て来た友人だったんです。彼は早々に北海道での就職を決めたので「何で田舎に引っ込んじまうんだ」って聞いたら、「東京にいても夜は明るいし仕事も大変だし・・・地元でのんびりやりたい」って。それを聞いてハッと思って。
地元での就職を思いついたと。
大槻
私はよく考えたら故郷のことをあんまり知らないことに気がついたのです。そこで、思い描いてたメディア希望の仕事と、地元を知るという2つの意味合いが私の中でうまく合致しました。東海新報はその時採用活動はしてなかったんですけど、こっちから売り込んで(笑)何とか採用していただきました。 同期が一人もいなくて、その年は私だけでしたが・・・
佐藤さんは?
大槻
私もほとんど同じです。関東の大学に通っていましたが、地元に戻って仕事したかったっていうのが大きいですね。それでたまたま履歴書送ったら通ったっていう感じ。メディアの仕事ができればっていうのはありましたけど、地元では東海新報しかないですから。テレビ岩手とか岩手放送もありますが、大船渡市で仕事ができるというわけじゃないので、地元で仕事ができるという点が大きかったです。
全社的には何名いらっしゃるんですか?
大槻
39名です。最近また増えました。
そのうち記者は何名いらっしゃるんですか?
大槻
外回りしてるのは8人です。
何か普段お仕事をしていて、自分なりの仕事の仕方のコツとか工夫とか何かありますか?
大槻
ちっちゃい会社ですので、とにかく残業を減らすという。我々の仕事が遅くなれば全体も遅くなって、ひいては経営を圧迫する。いかにスムーズにミスなく終わらせられるかってことは普段から考えてまして、翌日行く取材の材料があればある程度前もって。
準備はしておく、と。
大槻
はい。筋立てはしておきます。筋立てが外れたときにはギブアップですけど(笑) そこは心がけてやってますね。
日刊はリズムをちゃんと作ってかないと大変そうですね。
大槻
それが震災で流れまして。そのリズムが。
人、話題・・・すべてが一変した、前例のない取材での試行錯誤
具体的には何がどう変わっちゃった感じですか?
大槻
予定通りじゃないんですよ。筋書きが立てられない状態が多くて。
事前に取材の内容の予想ができない?
大槻
確かにそういうのが増えてます。
今までは去年の記事を見て、あぁこういうことがあったというところから筋書きを考えていたんですけど、それが出来なくなっちゃった。
全てが初めての経験。
大槻
前例がなくなったというか、全く前例がない状態で働くっていうのが結構つらいなと。
毎回新しい経験っていうのは、記者としての力を試されている感じですね。
大槻
これまでの取材対象は県内とか地区内の人で完結してたんですけど、仙台だったり東京だったり、かつてこの地区にこれだけ東大出身の方がいたかという状況なったりして。我々もこれまで以上に知識を付けて勉強していかなきゃ追い付けないなっていう思いがあります。
例えばどんな問題に苦労されましたか?
大槻
環境未来都市という内閣府の事業がございまして、それにこの気仙地区二市一町が選定されて新しい町作りを進めるという話しがあります。「コンパクトシティを作る」「スマートグリッドの町を作る」とか、その分野の先進的な話がどんどん出てくるんですね。今まで聞いたことがないカタカナが多いですね。何を言ってるんだろう?という状態です。
なるほど・・・
大槻
どうやって追いついて、対等に情報を引き出すか。それに、私どもの読者層は圧倒的にお年寄りが多いので、その人たちにどうやってこの先進的な、スマートグリッド何なんだべっていう、ところを伝えたらいいかと。分かりやすく。でも、分かりやすくすると字数が格段に増えちゃったりとか・・・こりゃ難しいなと。今まさに苦戦してます。
分かりやすくするにしても、また大変ですよね。
大槻
解説だけで終わっちゃったっていうパターンもありました・・・
高台移転などは、防災集団移転促進事業と区画整理事業、自力再建の3パターンがあったりしてそもそも制度が分かり難いです。当初は担当職員もよく分かっていなかった。前例がないことをやってるので、みんな手探りの状態でやってるなということを、取材に行くとよく感じるんですよね。
全国からいろんな人がいらっしゃるので、何か刺激になったりとか、学びになったりすることはありますか?
大槻
例えば、市長の囲み取材が格段に増えましたね。これまでだと月1,2回の定例の記者会見でいろんなことに関して所感を尋ねる感じでした。それが震災後はいろんな支局が増えたり、外から日帰りで来られる記者さんがいたりで、相当訓練積まれた方々が、定例以外でもみっちり取材している様子を頻繁に目にします。
俗に「ぶら下がり」と言われる取材スタイルですね。
大槻
そういう人たちの動きを見ることができるというのは、すごく勉強になるし、我々のより若い連中も参考にして伝えたりできるかなって思ってます。震災前はそういう機会っていうのもあまりなくて。
取材で印象に残ってることはありますか?
大槻
対岸に赤崎っていう町があります。ほとんど海沿いに立地しているので、住居とかお店とか相当な被害が出ました。それで、海沿いだった県道を山側に移したいっていう住民さんたちの要望があって、県が初めてルート案を出したんですけど、住民から自分たちが思い描いていたのと違うと大もめになったことがありました。
そういう話しが多いと聞きました。
大槻
だいたい、そういう説明会ってスムーズにいくということはないです。合意形成の難しさといいますか、地域が描くのと行政で描くのとこんなにも乖離があるのかと痛感しました。これをどうやって合致させればいいか、住民も行政もまだまだ分からない状態で、どうしたものかと。我々は難しい状況にいるのだなという事をすごく実感させられましたね。
合意形成という点について、まず情報が知れ渡るという意味では、東海新報さんの役割は大きいですよね。佐藤さんはいかがですか?
大槻
夜の取材が増えたことが印象的ですね。例えば、流された家が山に行くためにどこの場所を作るか、切り開いてどこに家構えるかっていう高台移転の話し合いはだいたい夜に行われます。関係者が大勢いて、昼間はやはり持ち場の仕事は離れられないので夜に集まるというのも結構多いです。被災した町並みをどうするかとか。一本松設置のやり直し工事も、夜に決まって情報が入りました。昼の間に結論が付かなくて夜までかかって、やっぱり枝を取り外すことにしましたとか、そういうことがありますね。
同じ悲劇を繰り返さないために新聞社が出来ること
地域の目標となりうるようなものは、何か出てきているんですか?
大槻
最大の目標はやっぱり新しい町ができるということです。大船渡の場合だと、駅前の元々中心市街地だった場所を盛土して、安全で新しい中心市街地を作り直そうという「津波復興拠点整備事業」があります。
大船渡駅はもう廃止なんですよね?
大川
廃止とは違って、仮復旧ということで線路を撤去してBRTっていうバスが走ってます。びっくりしたんじゃないですか?
びっくりしましたね(笑) 元々線路があったところがバス専用道になっていて・・・バス専用道っていうショックというかインパクトが強くて。あれは決めたというか音頭を取ったのは市や県なんですかね。
大川
気仙だとJRは線路の6割が無くなり、駅が壊れたりしました。復旧について検討する段階で、JRの方はこれから町がどうなってくのか全然見えないからまだ決められませんよって。1年経ったぐらいになってだんだん駅前を復興拠点に整備するという案が出てきた時に、JRから「BRTにしたい」というボールが投げられました。
JRからなんですね。
大川
そうなんですよ。それこそ夜の議論が喧々諤々と。それ受け入れたらもう線路戻ってこないよ、とかそういう話がいろいろとあって。
難しいですね。町作りって何がスタートかっていうとこですよね。逆に線路があって考えたいっていう立場もありますよね。
大槻
住民もそうですけど、市とか県の担当の人も手探りの状態、そういうので上手く行ってない部分もあるんですかね。
大川
あると思います。この辺はチリ地震での津波被害がありましたがそれももう...
50年ぐらい前ですね。
大川
半世紀以上前の話です。生活も社会システムもいろいろ変わってるから、ノウハウなんかあってないようなもんですから。
逆に今回の教訓を次に活かしていきたいっていうところは?
大槻
国の予算で義援金とかいただいています。それを、元に戻すだけでなく、再び同じような悲劇起こさないようにっていう部分があります。津波はいつかまたやってきますから、最小限のダメージで済むというか、少なくとも路頭に迷うことはないような環境に今のうちに整えておかなきゃいけないなとは思いますね。
東海新報の記者としてそれに向けて貢献できれば、と思っていることはどのようなことですか?
大槻
例えば我々の新聞を見て、こういう事業が始まるんだったら申し込んでみようかなとか、こういう事業が始まるんだったら先のこと考えようかとか、何かアクションするときに支えになれればなと思うんですね。
具体的には何かありましたか?
大槻
ホントに小さな喜びだったんですけど、保育士を募集するっていう記事を書いたときに、地元に保育士で帰ってきたいっていう人が気付いてくれて、応募して入ることができましたみたいな話を聞きました。うれしかったですね。大きい記事書いたという達成感とは別にやってよかったなと。
地方紙が生き残る道は「ハイパーローカル」
今後の御社の展開について伺いたいのですが、御社の社長が「ハイパーローカル紙は生き残る」というお話しをされていたと伺いました。
大槻
地域の一員っていう認識が大きいです。例えばこの地域の中では5時とか6時で仕事が終わる人もいらっしゃるんですけど、その人たちは地元の消防団に入って夜活動したりしています。この状況の中でみんな役割っていうのを持ってやっていると思うんです。僕はこの仕事で地域に貢献していて、その地域という一つのチームとして見たときに、復興に向けて一緒に歩んでいるのであれば、それでいいのかなと思うんです。
気持ちのつながりだけでなく、一人一人が自分の役割を見つけて果たしていく。
大槻
社会起業とかソーシャル事業とかよく言いますが、そういう考え方と似てるんじゃないかなと思うんです。地域がよくなることで我々も活かされるというか、よくなるっていう感覚なんですね。
社会的責任。
大川
まさにCSRですね。
大槻
千葉とか僕は、東海新報社の一員っていう意識はあんまりないんですよね。この地域で生きてる一人って感じ。
なるほど。この地域の報道担当みたいな。
大槻
そんな感じです。隣の地域でこういうことやってる、じゃあ行ってみようか、休みの日にこんなイベントがやります、じゃ行ってみようか。社長が言う「ハイパーローカル」とはそういう「地域の行動を支えるメディア」って意味だと思っています。
ちなみに現状、メディアとして「紙」を中心にされていますが将来的に電子化もご検討されているのでしょうか?
大槻
社長は考えているみたいです。
東海新報電子版ですか。僕も読みたいですね。東京にいながら読みたいです。
大川
そう。だから電子版っていうのはどっちかって言うと、故郷の情報を知りたいっていう人たちのための展開の一つとして考えている。
確かに。それきっかけにまた故郷に戻ろうとかありますよねぇ。
大槻
震災後はそれがあるかもしれないです。これまではこの地域に住んでる人たちのために書いていた部分があったんですけど、故郷から遠い大川くんみたいな人たちは、やはりすごくこちらを気にするんです。それで故郷から遠い人たちも読んでるんだって実感はすごくあります。ネットだったりとか、親戚のおばちゃんが送ったとか。そういう広がりが震災後あるかもしれないです。
一応ホームページの方でも記事は公開してますよね。
大川
個人的な感覚だと、ネットがどんどん増えてくと思うんですけど、紙の居場所は残ると思うんです。ラジオも生き残ってますよね。そんな感じかなって。今までは我々は紙しか考えてなかったけど、今後は、情報をこれはネットに、これは紙、っていう風に分けることはもしかしたらやるようになるかもしれないです。これはふる里を離れた人向けだなとか。
このエリアとは全く関係ない人と読者として増えていたりするんですか?
大槻
はい。被災地支援で来てくださった人は想い入れが強いです。
郵送で取ってくれる人がでてきたりもします。
郵送発行をやってるんですか?
大川
はい。一日遅れとかで。郵送なので次の日とかその次の日とか。郵送購読は震災前150部から現在420部まで増えています。
例えば東京で僕が購読したいと思ったら可能ですか?
大川
そうですね。ぜひ(笑)
今日はありがとうございました。
大槻
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