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関西インターネットの夜明け第1回:プロローグ──インターネットと私
関西IT業界の重鎮、中野秀男先生が、関西におけるインターネットの歴史を語る、書き下ろし連載です。第1回となる今回のお題は「プロローグ――インターネットと私」。
文:中野 秀男
写真提供:中野 秀男
初めてネットに出会ったときの感激は多くの人にあるだろう。私の場合は、1983年に初めて国際会議での発表のために渡米したときである。短期訪問先のカリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley、UCB)で、ARPANETの端末の前に座った。実際にはARPANETのアカウントは貰ってなくて、学科内ネットの端末に座り直し、「who」コマンドなどを実行して感激したものであった。
今回、「tech@サイボウズ式」で「関西インターネットの夜明け」の連載をすることになった。12回の予定である。
1993年に日本各地で地域ネットワークと呼ばれるプロバイダーが立ち上がった。それから20年以上たち、インターネットは当たり前で、時代はIoT(Internet of Things)に入ってきており、そろそろ黎明期の記録を残そうという動きがある。関西の商用地域ネットワークの取りまとめをしていた関係で私の手元に資料があり、ちょうど私も記録をまとめようと思っていたので、担当の風穴さんの営業努力もあり始める次第である。
12回なので、連載のピークはWINC(関西インターネット相互接続協会)の立ち上げになるが、最初の1回目はこの連載の大きな流れと、1983年のUCB滞在前後の話から書き始めたい。私自身のネットの夜明けになる。なお、この連載と並行して、ここでは載せきれない資料などを中野秀男研究所のWebのアーカイブとして残していきたい。当時の文書や写真やメールなど、適宜、関係者の了解を取りながら歴史の記録として残す予定である。とは言っても自分史的なところがあるので、関係者からの談話なども連載やウェブの中で公開するつもりにしている。
誰でも使えるインターネットは、日本では1993年に立ち上がった。先行してアメリカでは1990年またはその前から始まっている。関西では、1993年まではJUNET接続があり、1993年の各地の地域ネットワークの立ち上げのあと、IIJなどのプロバイダが立ち上がり、キャリアのNTTがプロバイダを始めることになった。1995年1月に阪神淡路大震災があり、まだWINCもプロバイダとして機能していたので活躍したと思っている。その後、WINCのようなボランティア的なプロバイダは役目を果たしたとして実質的に解散した。この連載は当初、資料が多くあるWINC設立前から書き始めようかと思ったが、頑張って時間の順に書くことにした。従って
- プロローグと昔の話、学科のLAN構築
- SEAとの出会い、JUNET時代
- 夜明け前
- WINC設立
- 他の地域ネットワーク
- WINCの運用と周辺
- ドメイン名問題
- インターネットの布教時代
- 阪神淡路大震災とインターネット
- バッファ
- 商用プロバイダーへの移行
- 夜明けは続く
と予定している。10回目はバッファである。2回目から5回目まではボリュームがあるので、どこかを2回に分けざるを得ないと思っている。
1970年に大阪大学工学部通信工学科を卒業し、家庭の事情で大学院に行くことになった。自慢ではないが大学院入学試験の成績は最下位だったらしい。院試の電磁気が零点で、当時の教授が電磁気だったので、面接で私だけみっちりやられた。ただ覚悟していたので、面接の質問は予想していて、さらさらと回答した記憶がある。
研究はシステム工学という新しい分野で、博士はそれでとったが、アルゴリズムにも興味があり、「組合せ最適化問題の近似解法」をテーマに、専門家としての道を歩き始めた。冒頭で触れた1983年の国際会議も、その研究での発表である。システム工学の研究は純粋な理論であったが、アルゴリズムの方は実際のコンピュータをぶんぶん回すという自分にあったものだった。
博士課程のときに指導教官の中西義郎教授にお願いして、研究室の予算3年分を融通してもらい、三菱電機のミニコン「MELCOM 70」を買ってもらった。500万円ぐらいだったと聞いている。当時は、コアメモリー、紙テープで、テレタイプ型の端末が入出力装置であった。私の研究は、そのミニコンを数日動かす必要があったが、当時のテレタイプは数時間しか連続運転できなかった。そこで、OSを逆アセンブルして解読し、今でいうデバイスドライバの部分を自分で制御して、出力時だけ端末をON/OFFさせたりしていた。
当時はFORTRANなので再帰計算ができなかった。仕方がないので雑誌の「bit」に連載されていた「SIMPL」という言語に目を付け、雑誌のコードを解釈しながら、自分でミニコン上にコンパイラを実現した。そのため、指導している学生にプログラムを書かせながら、コンパイラのデバックをするという状態であった。
今から考えると、この頃から実際に動くものの方に興味があったようである。研究室に来る学生も理論っぽいのが向いている学生と、コンピュータばりばりの方が好きな学生と、まあ4年で卒業できればというタイプとに分かれていた。理論もしながら、コンピュータも回しながら、皆で帰るときは、千里山や豊津の居酒屋で呑んで帰る日々だった。博士時代から、月に一度は、指導している学生を梅田のスナックに呑みに連れていったものである。
1970年代の中頃にマイコンチップが出てきた。1966年に大学に入ったときに、同級生と「フリップフロップで1bitのメモリなら、日本橋でICを買ってくれば千円で作れそうだ」と会話した記憶があるが、その後ほぼ10年で、CPUのチップが日本橋で買える時代になった。
幸い研究室には、当時M2の阿部君(ソニーに就職)と二宮君(日立製作所に就職)という、ハードウェアが得意な学生がいた。「作るマイコン」という、今でいうムック本が発売されたのを機に、日本橋の上新電機でMotorolaの「6801」を買い、確かボード3枚ぐらいでマイコンを作った。私はソフトウェアが得意だったので、そのマイコン用に4K BASICを作って、それで遊んでもらっていた。当時はインベーダゲーム全盛期だったので、それも作ってあげた記憶がある。シャープから出たばかりの「MZ80」を隣の研究室が買ったとき、私はZilogのCPUも触ってみたかったので、MZ80を触らせてもらう代わりとして、MZ80用のインベーダゲームを作ったこともある。時代としては研究室の情報化を担当していたようである。
そのような生活を続ているときに1983年に渡米の話が出た。一年間、海外に行くという機会が大学の教員にあり、私のボスの中西教授は半年間だけだがUCBに行っておられたし、UCB出身の回路理論の児玉教授もおられた。飛行機の往復チケットが45日間使えることから、国際会議の前後で、UCBを中心にプチ留学をさせてもらった。
冒頭書いたように、これが私の人生の岐路になろうとは当時は思わなかったが、帰国して日本の風景が変わっていたことは確かである。1983年4月25日、家族や他講座の教授等に見送ってもらって、サンフランシスコへ飛び立った。
写真1は、そのときのものである。当時はまだテニスをしていて、ラケット持って飛行機に乗ったので、何しに行くのと言われたものである。実は、すでに妹夫婦がカリフォルニアにいたのと、北山君(現大阪大学教授)夫婦も留学していたので、ラケットを持参したのだが(写真2)。
ここでのネットとの出会いは次に書くとして、アルゴリズム研究者としては、UCBでRichard Karp教授を訪ね、やっている研究を伝えて、週に一回程度、研究室に足を運んだ。
あるとき、君にぴったりの凄い論文[※1]が「Science」誌に掲載されたとコピーをもらった。まさに私が専門としている近似解法の画期的な解法だったので、宿舎にもどってむさぼるように読んだ。この解法は「Simulated Annealing」と呼ばれる方法で、帰国後、この解法を日本に持って帰ってきた研究者として扱われた。また、アメリカ人気質がちょっと分かったことも収穫だった。UCBには、ほぼ1カ月いたので、週末は、メジャーリーグやフットボールの観戦をしたり、ジャズフェスティバルを聞きにいったりもした。フットボールの観戦では、まじめな顔で観戦していたら、前にいる若者たちが私に「Take It Easy」と言ったので、妙にそのシーンを覚えている(写真3)。
さて肝心のARPANETであるが、通っていたのは「EE&CS」棟で、電気電子(EE)とコンピュータサイエンス(CS)の学科である(写真4)。
せっかくCSのところに来たので、Karp教授にお願いしてCSでのログインアカウントをもらった。端末は廊下に数台あり、適当に学生が座って操作していた。私の経験は三菱電機のミニコンだけだが、まあアカウントなのであとはパスワードを打ち込めばいいだけだなと思っていた。ここの廊下の端末は、建物にさえ入れれば、いつでも使えるようになっていた。土曜や日曜の場合は、建物の入口で待っていて、誰かが扉を開閉するときに一緒に入れば使える。それで勇んでユーザ名を入力してパスワードを入力しても入れない。ホスト名は「Annie」だったと思う。しかたがないのでCSのコンピュータ管理者の部屋を探して相談に行っても「君のはちゃんと入れる」とやってみせてくれる。仕方がないので、途方に暮れるまま、また端末の前に座っていた。ふと、前の席に若者がいたので聞いてみたところ「君が座っている端末はARPANET用の端末で、UCBのEE&CSの端末はこっちだ」と言われた。確かにそこのプロンプトは「Kim」で、やってみるとちゃんとログインできた。UNIXは初めてだったが、いろいろコマンドを打っているうちに、manコマンドでマニュアルが表示され、印刷もできると分かった。そこで、コマンドのマニュアルを大量に印刷して勉強させてもらった。「who」コマンドを打ったら、Karp教授もログインされていて、感激したものである。
6月4日までUCBにいて、無事帰国した。最後に500ドルほど余ったので、グランドキャニオンに行くか、洋書を大量に買って船便で送ろうかと考えたが、結局後者にしたので真面目な先生だったようである。帰国したら、まずは 諸先生への挨拶であるが、何故か周りの風景が変わったような気持ちになっていた。
収穫のひとつはインターネットとの出会いであり、UNIXとの出会いであった。私が所属したのはシステム研究室という名称であり、通信工学科ながら、他に情報の講座があった。その教授に帰国の報告に行ったときに、UNIXは知っておられなかったので幻滅した覚えがある。あとで聞いた話では、コンピュータネットワークの研究はされていたようで、主にパケットの研究をシミュレーションでやられていたようである。
私の居た研究室はPC-8001からPC-9801の時代に入っており、マイコン開発システムにあるC言語を使ってみたり、NBASICからDOSの時代に入って、Pascalも使えるようになっていた。ただ、UNIXマシンがどこにもない。調べてみると、Tandy Radio ShackがUNIXが動作するマシンを300万円で出していたので、また中西教授に無理を言って買ってもらった。メモリが1MbytesでHDDが10Mbytesであっただろうか。Wikipediaで調べてみると、「TRS-80 Model 16B」で、メモリが768Kbytes、HDDが8.4Mbytesとある。UNIXは「ZENIX」である。3人が同時にccすると落ちるようなスペックで、それを使って講義をしたりしていた。ちょうど一回り下ぐらいの、現在大活躍の情報関係の先生などから「昔は中野先生のUNIX」の講義を聞いたと、今でも言われたりしている。UNIXマシンにありったけのPC-9801をつないで、学生に使わせるという構図である。ネットワークはRS-232Cである。
1986年度に入って、工学部の学科持ち回り予算1500万円が、通信工学科に割り当てられることになった。当時の通信工学科は5講座あり、電磁系が2つ、あとは無線と情報と、私のいるシステムであった。これはチャンスと思い、数でいくと「非電磁気連合」で勝てると思い、「通信工学科なのにLANがないのはおかしい」と3つの講座を説得した。電磁気系は別の説得で了承してもらい、見事、LAN構築予算を獲得した。予定表を見ると、1986年11月11日に、この特別設備の委員会が開かれている。今回の連載を始めるに当たり、1980年からつけ始めた能率手帳が、出来事を調べるのに役に立っている。
この委員会では、情報の講座の真田助教授に委員長になってもらい、その下で実務の親分をした。今まで研究室という単位で物事を見ていたのが、そのころから学科という単位にスコープが広がったようだ。今は大阪を中心に関西、日本をスコープにしているつもりなので、その最初のホップであろうか。
1500万円をネットで500万円、機器で500万円、工事で500万円として切り分け、各講座100万円で、と説得した。どうも電磁気系は高価な高周波測定器を考えていたようだが、なんとか説得した。「10Mbpsの高速ネットワークが引かれますよ」と説得したが感覚がなかったようで困った。最後は、私の研究室のボーリング大会の寸前に、電磁気系の研究室の助手から呼ばれて「説明しろ」と言われた。そこで作戦を変えて「ほら今、大型計算機センターにカードを抱えて毎日通っておられるでしょ。それが今回のシステムでネットワークが使えるようになると、通わなくて済みますよ」と説明して、「それは便利やな」と言われてなんとか切り抜けた。結局、電磁気系と無線の講座にはPC-9801を数台ずつ配り、情報とシステムの講座にはワークステーションを買うことにした。
工事がまた難物だった。電気と電子の研究室は、それぞれ1Fと2F、3Fと4Fと、2フロアで横に長い配置。通信工学科は「通信なので高い方がいい」とかで、5Fから9Fまでに5研究室と教授室、助教授室がある構造で、横だけでなく、縦の穴あけもあって、大変な工事になった。外壁の4カ所に穴をあけることになり、でも縦方向は図面がないので、業者が「勘」で作業したらガス管をぶち抜くという事件が冬にあって、そのときは、各フロアの窓を全開するのに階段を走り回った。数年前に今の通信工学科の教員から「中野先生が張ったネットワークがやっと無くなりました」と言われたのでほっとしたものである。
研究室のワークステーションをどうしようかと検討していたときに「SUNという優れたワークステーションがあって、UNIXが動く」と聞いて、それかなと考えていた。
ちょうどそのころ、相模原にある会社の施設で「構造化エディタ」の会合があると聞いて、参加することにした。そのどこかの、おそらく昼食だったと思うが、当時、野村コンピュータだった佐原伸さんと同席したので「SUNとかいうコンピュータはどうすれば手に入りますかね」という話をしたら、「SRAという会社があるので、そこと相談すれば」と言われた。
それはそれで記憶に残したまま、同じ頃、当時まだあったΣプロジェクトや、メインフレームメーカーを中心にしたSystem V系UNIXの動きに対し、「それらを潰そうぜ」というワークショップが横浜で開かれた。こちらはワークステーションの情報収集のつもりで出かけたのだが、その前日夜「中華街でご飯でも」と誘われた。これが「明日のための密談集会」だったとは、後で知った。単に中華料理で夕食と思っていたわけだが、どうもそこが村井純さん(現、慶応大学教授)との初めての出会いだったようである。この連載で徐々に明らかになっていくと思うが、人生で大事なのは、いい上司や友との出会いだと思う。いい友だけでなく、「向こう側」の方であっても、反面教師として見ることもまた大事である。
この横浜のワークショップは歴史的なものだったが、Σ側の久保宏さんは、実は知り合いだった。帰り道、偶然一緒になったので、スナックに入って話をした。何を話したかは覚えていないが、茹でたピーナッツがつまみで、ピーナッツはこうしても食べれるのかと感心した記憶がある。
「ワークステーションはSUNかな」という思いを頭に入れていたときに、「UNIXシンポジウム」が大阪、桜宮のリバーサイドホテルで開かれていたので参加した。階段にイエローケーブルを引くという、ちょうど私が、通信工学科でやろうとしていたことが話題だったので、興味があった。
そのシンポジウムでは、昼食でお店に入ったら、ちょうど目の前に座っていたのが、SRAの林香さん(写真5)だった。私がさっそくSUNの話をしたところ、SONYの「NEWS」というワークステーションがあると教えてもらった。値段も手に届く範囲だったので、私の研究室と情報の研究室はNEWSにしようかと思った。人の出会いの妙を感ぜずにはいられない。あとで林さんに聞いたところ「ワークステーションの話ばかりする大阪弁の変な先生」と思ったそうである。
私は、佐原さんからSRAという会社をインプットされていたので、渡りに舟と聞いただけだった。このときのワークステーション購入計画は、最終的には、我々はSONY NEWSを、情報の講座は東芝からSUNを、それぞれ購入して終了した。
私がどんな人物か、東芝の営業が調べていたと、あとから聞いた。私は、ボランティア活動をやったり、小さな会社を応援したりするので、大きな所からは睨まれる質(たち)らしい。そういえば、PC-9801のバグ事件のとき、当時のNEC支配人の弁明に対してコメントを求められたが、NHKのニュースでは「とんでもないですね」という言葉だけ、私のコメントとして使われてしまった。このときも、カノープスの社長から「先生、背後関係を調べられてますよ」と言われ、「この業界は......」と思ったことがある。この支配人とは、その後、某所で会って談笑しているので、このころから大人の対応を勉強し始めていたのだろう。
大学の研究室は、教授をトップとする小さな会社のようなものだと言われるが、それよりももう少し大きな組織である「学科」の情報化を、構内LANという形で構築したことは、私にとって貴重な経験であった。「インターネットの夜明け」前の話で、私の周りだけ少し夜が明けてきた......というところで、この連載の第1回目を閉じることにする。
なお、通信工学科の翌年に、電子工学科がLANを構築した。このときは10BASE-5ではなく、10BASE-2でLANを構築している。通信工学科で最初に予算見積もりをしたときのLANボード(10Mbps)は45万円だったが、その数カ月後に見積もったときは20万円になっていた。ネットワークプロコトルはTCP/IPが主流ではなかったので、いろいろ苦労した。通信工学科が入っている建物は縦に長いので、各フロアのアース(接地)レベルが違っていたり、屋上に設置したアマチュア無線用のアンテナに雷が落ちて、ネットワーク機器やパソコン(IF800)のディスプレイが真っ白になったり、電源工事したら10BASE-5の終端抵抗が機能しなくなったりと、いろいろな「事件」が起こったものである。後年、セキュリティ実務の専門家と言われるようになったのは、こうした経験があったからだろう。(つづく)
※1:「Optimization by Simulated Annealing」(S. Kirkpatrick; C. D. Gelatt; M. P. Vecchi、Science, New Series, Vol. 220, No. 4598. (May 13, 1983), pp. 671-680)
本連載へのご意見、ご感想、ご質問を広く受け付けます。編集部、または担当編集の風穴まで、お気軽にお寄せください。(編集部)
変更履歴:
2014年07月14日:「君のはちゃと入れる」を「君のはちゃんと入れる」に修正しました。また「Annealing」のスペルミスも修正しました。いずれも編集部の校正ミスでした。申し訳ありません。ご指摘いただき、ありがとうございました。
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