あのチームのコラボ術
個人競技にこそチームマネジメント? フェンシング 太田雄貴選手のリーダーシップ
その年に最もチームワークを発揮し、顕著な実績を残したチームを毎年「いいチーム(11/26)の日」に表彰するアワード「ベストチーム・オブ・ザ・イヤー」。
今年で5回目を迎える本アワードで、本年のスポーツ部門賞を受賞したロンドン五輪「メダリストチーム」の中から、団体銀メダルを獲得したフェンシング男子日本代表の太田雄貴選手にお話を聞くことができました。
個人競技のイメージが強いフェンシングにおいて、いかにしてチームとして結束し、史上初めてとなる団体でのメダルを獲得したのか。チームのキャプテンとしての葛藤は?本人に直撃取材です。
自分たちの人生を変える。アスリートのメダルへの執念とは
北京オリンピックでは個人戦で銀メダル、ロンドンオリンピックでは団体戦で銀メダルに輝きました。個人戦とチーム戦の違いはどこにあったのでしょうか?
椋田
ロンドンの個人戦ではもちろん金メダルを目指してきたので残念でした。そんなことがあって臨んだ団体戦。準決勝のドイツ戦、残り2秒で同点に追いつくシーンがありましたが、あれは個人戦ではありえなかったと思います。後ろにいる仲間がいたから勝てたんです。みんなそれぞれ個人戦で負けていたので、チームでミーティングを重ねました。
そこでどのような話しを?
椋田
「メダルを獲れば人生が豊かになる」「メダルを獲れなかったことが想像できなくなる」「人生を変えよう」と伝えました。メダルを獲れないと、どれだけ注目されていた選手でもマスメディアから消えてしまいます。彼らにも家族がいる。メダルを獲れば、その家族の数の分だけ、4倍なのか16倍なのか、みんな豊かになります。そうして生まれた、チームのメンバーの今までに見たことのないようなプレーがメダルにつながりました。その中で僕はあくまで最後を締める役割でした。
メダルというのはそれだけ重要なんですね。
椋田
ちなみにフェンシングは、試合に1秒でも出ればメダルをもらえる権利が与えられます。しかし、北京オリンピックまでは試合中の戦略的な選手交代は禁じられており、選手が交代ができるのは怪我をしたときのみでした。なので、メダルのかかった試合ではどの国の選手も、オスカーをあげたくなるような演技で怪我したふりをするんです。もちろん審判にイミテーション(=真似)だとバレれば交代はできないませんが。
そんな駆け引きがあるんですか!
椋田
だから、金メダルを獲ったチームでも、試合に出られずにメダルをもらえなかった選手がいるとみんな下を向いているシーンがあります。北京オリンピックのときは、ドイツチームは試合の最後30秒で7回ぐらい選手交代を繰り返していました。
メンバーを思う気持ちがモチベーションの変化を生んだ
それだけメダルに執念を燃やす中で、北京からロンドンへの気持ちの切り替えはスムーズにできましたか?
椋田
モチベーションの管理については苦しみました。フェンシングの選手はオリンピックがない4年間にも年間10試合程度戦っています。しかし、一般のお客さんからはオリンピックぐらいしか見てもらえない。そんな中、フランスでの世界選手権の後に燃え尽き症候群のようになってしまいました。それからロンドンオリンピックを目指そうという気にさせたのは、自分の内なるものというよりは、外からのもの。今回、個人戦で金に届かなかった理由はそこだと思っています。
個人戦から団体戦への切り替えはいかがでしたか?
椋田
自分のモチベーションが変化を起こすということはなかったです。個人戦が終わった後にプッツリ切れてしまい、団体戦を自分のために頑張るという気持ちはありませんでした。でも、チームのメンバーがより高いステージで人生を送るためにメダルを獲ろうと素直に思いました。特に千田健太くんは宮城県気仙沼市の出身で「震災からの復興の希望に」という重いプレッシャーがあって、自分のために戦えない雰囲気も感じていました。だから「気仙沼にメダル持ち帰って、子どもたちと盛り上がるぞ!」と言っていました。
具体的に、モチベーションが変わった瞬間というのは?
椋田
特にこれと言った切り替えの瞬間はありませんでした。ある朝目を覚ましたら横で寝ていたメンバーの顔が目に入って、その時にふと「こいつらにメダルを取らせてやろう」という気持ちに切り替わったような気がしますが、それがすべてということはありません。感覚としては考え続けた中で、いつの間にかという感じです。
スポーツチームと会社は一緒?太田流チームマネジメント術
太田さんはチームの中でどのようなリーダーだったんですか?
椋田
リーダーとしての役割は全部引き受けていたと思います。オレグコーチが熱くなっているのを止めるのも、コーチと選手の間の通訳もやっていました。「負けたら自分のせいで、勝ったらみんなのおかげでいい」と言っていました。
練習やオフでは、よくチームの皆さんで集まるんですか?
椋田
練習は基本的に8人でやります。ただ普段から連絡を取り合ったりはしません。みんな若くて、ゆとり世代。彼らはバリバリの体育会ではなかったんです。だから、“かまう”ことと“押し付ける”ことは紙一重。
それは意外ですね。
椋田
会社でもそうでしょうけど、なにか辛いことがあっても、そのはけ口となる場所に先輩とか上司とかいたら気分の切り替えが難しいでしょう。だから僕も彼らのコミュニティーに入ろうとはしないんです。
なるほど。
椋田
もちろん8人のチームワークや協力体制は大事だと思っていて、たまにはみんなでユニバーサル・スタジオ・ジャパンや祇園祭に行ったり、鍋とか鬼ごっことかすることもありました。僕は自然体でワイワイするのが好きなので、そういう場にはお酒もあってもいい。練習場ではできない会話もあるし、言いたいことを言い合って熱い話をしたりもしました。
太田さんはこれまで、チームワークについて学ぶことはありましたか?
椋田
いいえ。こういう取材などで、企業のいろんな業種・業界のひとと話す中で学んでいます。スポーツチームの運営って、会社の経営と一緒だと思うんですよ。
スポーツチームの運営と、会社の経営が一緒とは面白いですね。
椋田
そうなんです。状態が悪くなると、企業もチームも直近の成果を求めてしまいがちです。しかし、どちらも先を見据えてやっていかなければいけません。フェンシングのチームで言えば2年後ですね。ベテランと若手をセットにしてチーム編成を行い、若手を育てるなど気を遣います。だから、僕がいることが弊害にもなりうるんです。今後僕は出場機会を減らしていかなければいけません。彼らにまかせないと、チームとして成長できません。
チームを思う気持ち、その根底にあるフェンシング普及の夢
4年後のリオデジャネイロオリンピックも同じチームで挑みますか?
椋田
いや、4年後、チームは大きく変わっていくと思います。僕がそこにいるかどうかは分かりません。若い選手が入ってきたりもするでしょう。僕が思う強いチームというのは、流動的で組織として強くなっていくチームなんです。ずっと同じチームだと必ず世代交代に失敗します。絶対的不動のキャプテンがいるということにはメリットもデメリットもあるのです。
でもアスリートの方って、個人として上を目指すものじゃないですか?
椋田
現役で戦っているひとだけが分かることってあるんですよ。野球の城島選手は残り一年の契約期間、年棒4億を手放して引退を決意しました。キャッチャーとしてこれ以上の成長ができないと分かったんでしょう。僕も次のオリンピックは単に出るだけではだめなんです。金メダルを獲るか獲らないか。水泳の北島先輩みたいに余裕を持って、楽しんで競技をするなんて僕にはできない。
参加するだけでは、満たされないと。
椋田
きっと生き急いでいる面もあると思います。だから、4年後にオリンピックを目指したいと思えば目指すし、思わなければ目指さない。来年4月ぐらいがそれを決断する限界かなと思います。でも明日の自分のことさえも分かりません。将来について考える立場をもらえていることに感謝しながら、決めたいと思います。
太田さんが、そこまでチームを重視する理由は何ですか?
椋田
チームメンバー一人一人がというよりも、日本でフェンシングの普及につながる成果を生みたいんです。でも自己犠牲のつもりもありません。自己犠牲は世界では全く通用しませんから。ゴールはチームが勝つことであって、派手な仕事をすることではありません。
フェンシングがもっと普及していくためにはどんなことが必要だと思いますか?
椋田
例えば、イタリア・中国・韓国のようなフェンシングだけで飯が食える国、また日本が目指している地域型スポーツクラブを実践しているドイツなどは、選手がフェンシングに集中できる環境を提供しています。日本では、そこまでスポーツって必要じゃないんじゃないかと思われています。つまり、国としてスポーツの価値を見出せていないのが現状なんです。
変わるためのきっかけは何でしょうか?
椋田
私たちアスリートが「あの感動はお金じゃ買えないんじゃないか」と伝えていかないといけません。税金を使っていると叩かれ、メダルを獲れずに帰ってきて叩かれ… それはあまりにもアンフェアだとは思います。僕はいいんですけど、下の世代が「太田選手みたいになりたい」と思ったときに、彼らが同じ苦労をしないようにしたいです。
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(写真:橋本 直己)
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