無駄づくりのプロも、無駄に悩んでいた。「暇な時間がこわい」のはなぜ?──藤原麻里菜さん
「こんな無駄な時間を過ごして、自分は何をやっているんだろう」「暇な時間があると、なんだか不安になってしまう」。
こんなふうに「無駄がこわい」と思っている人は多いかもしれません。でもそもそも、どうしてわたしたちは「無駄がこわい」と思うのでしょうか?
今回、お話を伺ったのは株式会社無駄の代表・藤原麻里菜さん。2013年からYouTubeチャンネル「無駄づくり/ MUDAzukuri」を開設して、「札束で頬を撫でられるマシーン」など、これまでに200個以上の“無駄な”発明品を制作・配信しています。
そんな藤原さんですが、かつては「無駄がこわい」時期があったそう。一体何があったのでしょうか?
当時のお話を伺いながら、「無駄」とどう関わればいいかを教えてもらいました。
「生産性がない時間」が無価値に思えた
無駄づくりのプロでも、無駄な時間に焦ることがあるんだなと。
2020年に入ったころ、コロナ禍で対面での活動が制限されてお仕事が減り、暇な時間が増えたんです。ただ、収入は減っても、国から支援金(※)のおかげで無駄づくりには打ち込めていました。
※奇想天外なことに挑む人を応援する、総務省「異能ベーションプログラム」を通過し、国から300万円の支援金を受けていた
何か明確なきっかけがあったわけじゃないんですけど、だんだんと「無駄」を削って生産性のあることをしないといけない気がして、精神的に体調を崩してしまったんです。
でも、体調を崩してからは、そういうことができなくなり、無駄づくりのアイデアも浮かばなくなって。生産性のない状態を肯定できず、さらに苦しくなっていました。
必ずしも無駄なことから、何かが生まれなくてもいい
よい反応がもらえなくても、しっかりと手を動かして、できあがったものを人に見せて反応をもらい、また考える。そのサイクルさえきちんと回せていればいい、と。
生産性がなくて苦しかったとき、「みんなをもっと驚かせるような、おもしろいものをつくらなきゃいけない」と思い込んでいて。
それなのによいアイデアが思い浮かばず、「わたし、ものづくりの才能がないな」と落ち込みました。
でも、最終的には「才能があるかどうかじゃなくて、アイデアを形にするために、とにかく手を動かすことが重要なんだ」という考え方にたどりついたんです。
特別なことが起きなかった日でも、「コーヒーが美味しかったな」「お店で変な人を見かけたな」とか。
でも、いまは肯定するべきものだと考えていて。「生産性がある」とされる既存のタスクをなぞっているだけでは、新しいことは生まれないんです。何かしらの革新は、無駄なことから生まれるわけで。
もちろん必ずしも無駄なことから、何かが生まれなくてもいいんですよね。生産性がない時間を肯定できるだけの強さを持つ必要があると思っています。
「心が満足すること」に集中するための合理性
その一例が、プログラミングでコードを書くときです。自力だと1時間くらいかかるので、ChatGPTを使って5分間くらいで完成させることもあります。
たとえば、料理が好きな人は、他人に料理をつくってもらうよりも、自力でつくったほうが満足できるはずです。
そんなふうに「自分でするのが楽しい」と思えることの時間を確保するために、自分以外にもできることはテクノロジーや他人の力に頼ることもあります。
「ただ楽しいから」で自分を納得させていい
好きなことができる余裕を生み出すために効率化しているのに、効率化するためのタスク処理に追われてしまう。それでは心が潤いません。
仕事のスキルアップなど役立つことじゃなくて、踊るでも歌うでもとにかく自分の心が豊かになることをやってみる。
すると、たとえ生産性がなくても、「楽しい」という本能が満たされて、心が満足するはずです。
そういう原始的な理由で、自分を納得させていいと思うんです。わたしの無駄づくりも、いちばんの動機は「ただ楽しいから」ですし。
「好きなこと」を好きであり続けるために、無駄な時間をつくる
でも唯一、ものづくりだけは楽しいと思えて。ものづくりみたいに、自分の心が満足することに時間を費やすのはこわくないんですよね。
わたしはそれだけは避けたいし、好きなことを好きなまま続けていくことをいちばん重視していて。だからこそ、続けるための努力は必要だと思うんです。
そうやって自己管理しながら、「無駄づくりはもうしたくない」と思わないように自分の心を守っているんです。
人間は「無駄なこと」にも意味を見出せる
そもそも人間って、無意味なことが苦手なんですよ。だから、何かの役に立ちたいし、何かしなきゃいけないと思ってしまう。
建築材料などに使えない木は、切り取られることないため、大木へと成長します。すると、無用だったその大木の陰で、みんなが休憩したりするようになる。
そんなふうに世間的には役立たないとされているものが、別の意味で非常に大切な役割を果たすこともあるんです。
逆に、わたしにとって「価値のある無駄」でも、別の人にとって「価値のない無駄」になることもあります。
例えば、わたしは旅行の記念品として、現地の石とか木の枝を拾うのが好きなんです。でも、わたしが拾ったものを見た夫は「どうしてゴミを拾うの?」と。ものごとの価値は、ひとつの物差しで決められないんですよね。
「役立つかどうか」ではなく、好奇心のままに無駄なことと向き合う
たとえば、登って降りるだけの滑り台って、よくよく考えると無駄ですよね。それを前のめりでやってみるとか。何の価値にもつながらないんですけど、楽しくて満足できるかもしれません。
その自分基準の価値を見つけるには、いろいろと無駄なことに挑戦しながら、「楽しい」と心が満たされる感覚に敏感になる必要があります。
でも、その「無駄」が結果的に何の役にも立たない場合もあるわけで、熱量高く向き合えるかどうか不安です……。
何かをするときに「役立つかどうか」でふるいにかけて、役立つからするんじゃなくて、好奇心に従ってあえて役立たない無駄なこともしてみる。
そうすることで、今日まで無駄だと思っていたことでも明日からは価値が生まれて、自分の可能性を広げられるかもしれません。
寛容な心を持っていれば、すべてが価値あるものに見えます。だからこそ、ただ好奇心のままに生きていってほしいですね。
企画:深水麻初 取材・執筆:流石香織 撮影:栃久保誠 編集:野阪拓海/ノオト
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執筆
流石 香織
1987年生まれ、東京都在住。2014年からフリーライターとして活動。ビジネスやコミュニケーション、美容などのあらゆるテーマで、Web記事や書籍の執筆に携わる。