ベテランの「伸びる・伸びない」という直感が若手の才能を潰す
サイボウズ式で多くの反響を呼んだ連載の著者・nwiizoさんによる、新しい連載『才能を疑え』が始まります。
自分探しブームが広がるなかで、才能や強みは「個人の内側」にあるとされてきました。しかしAIが能力の一部を担ういま、「できる・できない」は本人の資質だけで決まるのでしょうか? この連載では、才能を個人の持ち物から引きはがし、発揮される環境や条件からとらえ直します。
第1回は、マネージャーやリーダーなどの「評価する側」が無意識に抱くバイアスに迫ります。
はじめに
ある「受け身な人」がいました。私はソフトウェアエンジニアとして、同僚が書いたコードのレビューを担当しているのですが、私の指摘に対する反応が、まあ遅い。会議でもあまり前に出ないし、提案も少ない。正直に言えば、この先も伸びないだろうと思っていました。
でも、あとから考えると、その人が受け身になる理由がありました。レビューのたびに前提が変わる。期待されることが曖昧。小さな質問には「前にも話した」と返される。提案しても判断基準がわからない。その人が質問や提案をためらってしまう条件を、私は数えていませんでした。
私が見たのは、その人の反応が遅く、提案が少ないことまでです。「受け身な人だ」は、その断片的な行動から私が加えた解釈でした。それを、いつの間にか「この先も伸びない」という予測にまで使っていました。
その予測を、自分の人生には当てはめていなかったのに。
失敗には「事情」を足したくなる
先ほどの人を「返事が遅い」と書きましたが、私にも、レビューへの返事に時間を使った経験があります。
データや処理に付けた名前の曖昧さや、処理の分け方を指摘されました。その指摘自体は、正しかった。しかし、私は「自分の設計が否定された」と受け取り、相手の指摘に対して自分が負けたように見えない反論ばかり考えていました。
当時の私に必要だったのは、確かめる対象を戻すことでした。曖昧と指摘されたコードが、実際にどう読まれるかを確かめるべきだった。それなのに、反論に時間をかけていた私は、きっと周囲から「レビューに弱い人」に見えていたでしょう。
返事が遅いという事象は同じなのに、冒頭の人には「受け身だ」「この先も伸びないだろう」と考え、自分のことになると「レビューに弱いと思われたくない」「こちらの事情をわかってほしい」と思っていました。
他人の失敗は「実力」で、自分の失敗には「事情」がある。そんな矛盾を抱えた私たちは、人の仕事を評価する側にいるとき、より慎重にならなくてはいけません。
また仕事の途中には、すでにAIがいます。調べる、案をつくる、確かめて直す。これまでは個人の能力とされていた一部をAIに任せるようになったいま、私たちは何から評価するのか。「この人はできる」と判断してきた根拠も、前と同じままでよいのかが気になります。
成功は「努力」だけで語りたくなる
失敗には「事情」を足すのに、成功すると自分の「努力」だけで説明したくなる。こちらの省略も気になります。
たしかに、学ぶために時間を使ったのは私です。ただ、覚えやすいことや、関心を持ちやすいことは、生まれる前に選べません。誰に教わるかも、自分では決められない。自ら考え、調べ、直した時間はよく覚えていても、「努力できる環境」そのものを支えていた助けは見えにくい。
それを忘れると、「私もやったのだから、あなたもできるはずだ」になってしまいます。私は相談先を知っていたのに、相手には教えていない。私は失敗しても次を任されたのに、相手は一度で外されている。努力できる環境の違いを省けば、意欲の差だけで話が終わってしまいます。
努力したことは誇ってよいと思います。ただ、その成果から、うまくいかなかった人より勤勉で立派だったとまでは言えません。私が何をしたかはわかっても、相手が何に耐えていたかまではわからないからです。自分が頑張ったことは、相手が怠けた証拠にはなりません。
一方で、「自分の努力だけでここまで来たわけではない」とわかっていても、誰かへ次の仕事を渡す場面では、ついその人のわかりやすい実績を探したくなります。そこで次の見出しでは、マネージャーやリーダーの立場から、何をもって評価すればいいかを見ていきます。
評価する側が「提出させたもの」は何か
ここからは、私が人の仕事を評価し、次の担当者も考える立場にいると仮定します。
冒頭の受け身な担当者から「レビューのたびに判断が変わるので、どこまで進めてよいかわかりません」と相談された。私は事情を聞かずに決めつけたくないので、判断が変わった箇所を全部整理し、それぞれ何が問題だったのか説明してほしいと頼みます。
担当者は、それまで進めていたコードの修正を止めて、私への説明資料をつくり始めました。以前のレビューをAIで一覧にするところは、すぐに終わる。ただ判断が変わった箇所のうち、どちらの指示を優先するかは、一覧にするだけではわかりません。
「判断が変わった箇所を整理するのも、時間がかかります」と返ってきたら、どこに時間がかかるのかを聞きます。全部をていねいに書く必要はないとも伝えられます。担当者は、私へ出す説明を短くするでしょう。以前より読みやすい。しかし、その表をつくっている間、コードの修正は進んでいません。
もし担当者が隣の席にいて、私に声をかけ、食い違ったコメントを並べて「どちらを使えばいいですか?」と聞いていたとしたらどうでしょう。同じ質問でも、頼まれた説明の量が違います。しかしここで重要なのは、返事の遅さを比べることではなく、「自分が何を提出させたか」です。
この人の1日には、コードを直す時間と、私への説明を整える時間の両方が入っています。しかし、私が担当者を評価するときに見るのは、手元に届いた短い説明と、まだ終わっていない修正です。「私が判断しやすくなるように」と、短くなるまでに捨てられた文章は見えていません。
人の仕事を評価するとき、見えている成果だけでなく、相手に背負わせた説明や資料づくりも大きくかかわることを忘れてはいけません。
この例なら、部下に説明資料をつくらせるのではなく、私もいっしょに過去のレビューを開いて、判断に必要な情報をその場で確かめればよかったのです。部下に「もっとわかりやすく相談して」と求める前に、まず相談を受けた自分自身がどう動くべきかを決める必要があります。
AIの「都合のいい助言」を安心材料にしてはいけない
事情を聞いた後で、先ほどの担当者への評価コメントをAIにも点検してもらうとします。
私は「受け身な担当者へ、主体性を促すには?」と入力する。会議で発言が少ないことと、コードの修正が遅れていることも添えます。
AIから返ってきた文章には、「本人が小さな提案から始められるよう、機会を設けましょう」と書かれていました。私は、自分だけの見方で決めなかったことに安心します。本人を責める言葉も減りました。
ただ、レビューのたびに私の評価が変わって、結局どれが有効な指示なのか相手を迷わせていたことは、AIに入力していません。担当者が送ってくれていた質問も、まだ見ていません。
AIが自分と異なる見方を示すことはあります。だからこそ、何を渡して考えてもらったのかというインプットの偏りが気になります。
私が選んだ出来事と、私の主観的な人物評によって導かれた助言を、第三者による客観的な証言と同じには扱えません。AIの返答のなかに私と同じ見立てがあっても、私の見立ての正しさを支える事実が増えたとは限らないのです。
私がやるべきなのは、レビューのときに担当者が送ってくれていた質問を見て、自分の指示と並べることです。AIから返ってきた都合のいい助言をどう伝えるかより前に、読むものがあります。
もし私が「評価される側」だとして、自分の評価が結論だけで返ってきたら、判断に使った材料は何かを知りたくなるでしょう。それなのに「評価する側」になった途端、AIの返答を安心材料として相手に結論だけを渡したら、それは正当な評価ではなく「自分の言い分を整える道具が増えた」だけです。
評価の根拠になった出来事を伝え、もし相手から「違う」と返ってきたら、その記録を開く。上司である自分が判断しやすくなることと、相手が私の判断を直せることを、いっしょに用意したいです。
実績には「機会の違い」も含まれる
先ほどの場面を、次の評価面談まで進めてみます。
私は担当者を「受け身」と呼ぶのをやめて、「自分から提案する場面がまだ少ない」と書きます。育成の方針に「主体性を引き出す」と記します。次の面談までに、自分から動くところを見せてほしいと伝えます。
一方で、期限が近い仕事などは、説明が少なくて済む人へ頼みたくなる。その場合、次の設計会議は、いつも案を出してくれる人に相談します。
評価面談を受けた人には、いまの作業を終えた後で改善案を出してほしいと伝えます。しかし、設計会議では、新しく決まったことが増えています。その人には、決まったことが共有されるだけです。
この例なら、設計会議へ呼ばなかった理由は私の側にあります。次の評価面談で提案の少なさを数えるとき、その人が「提案するための情報」を知る機会がそもそもあったのかを確かめる必要があります。
いまできることを評価すると、その結果をもとに、次の仕事や支援が配られます。つまり「いま何ができるか」を記録することは、「次に何を経験できるか」にもかかわるのです。
理解が速いと評価された人は設計会議に呼ばれ、難しい仕事を経験して、次もよい結果を出す。一方、まだ難しいと判断された人は、練習する機会すら得られないことがあります。
実績の差を見て「最初の評価は正しかった」と言うとき、私が配った機会の違いも結果に含まれているかもしれません。これは実績が偽物だという話ではありません。その差をつくった条件に、私の判断も入っているという話です。
「期待する」という言葉で、次の機会を約束しない
では、全員へ同じ機会を渡せばよいのか? そう簡単でもありません。全員に同じ機会を配っても、同じことを試せるとは限らないからです。
たとえば、先ほど設計会議へ呼ばなかった担当者にチャンスを与えようと、次の設計会議に呼ぶとします。会議の途中で初めて資料を渡され、その場で案を求められる。これでは、前から背景を知っている人と同じ条件になりません。
評価する側が機会を渡すとき、「いまできること」と「支援があれば試せること」は分けて考えます。本当に主体性を試したいなら、ただ担当者を設計会議に呼ぶのではなく、先に資料を渡して「会議で決めたいこと」を伝えるべきです。
それでも案が出なかったら、何が足りなかったかを確かめます。知識が不足していたのか、議論の余地がなくすでに決まりきっていたのか。後者なら、決定済みの話へ招いたことを、主体性を試す機会に数えるのはおかしい。
もし次の機会をまだ用意できないなら、未定であることを正直に伝えます。「期待しています」という言葉で、用意していない予定を約束したことにはしません。
成長の速さだけを次の評価基準にすれば、また理解の速い人へ機会が集まります。支援したくなる人にだけ手を貸すのでも足りません。仕事を配る側の人間は、「誰が担当候補に入っていないか」を見ることも役割のひとつです。
評価する側も、学び直さないといけない
冒頭の「受け身」という見方を直すなら、本人にもう一度、自分のよさを説明させるだけでは足りません。私が「受け身な人だ」と判断した仕事の記録から確かめ直します。提案しなかったのか、提案した後で返事を待っていたのか。人物評よりも先に、検討すべき事実があります。
本人が話すのを得意としていなくても、仕事の記録や周囲の観察を参考にできます。新しい報告書を全員へ課す前に、すでにあるコードの変更理由や利用者からの返事を読む。私が見ていなかった仕事へ、私のほうから近づきたいです。
たとえば、営業に同席するエンジニアを評価する場面を考えます。
一人はAIを使い、仮のデータで取り込みの動作を見せるデモをすぐにつくった。もう一人は、実際に使う顧客のデータを提供できるか聞いています。顧客の担当者には、自社のデータを社外へ渡してよいと決める権限がない。別部署へ確認する間、この人のコードの変更は増えません。
私は、前者のデモの完成を実績に数えます。後者には、もう少し具体的な成果も欲しいと伝えます。
確認の結果、毎日自動で取り込むには顧客側の作業も必要だとわかったら、導入までの予定が変わります。デモは動いていました。ただ、使い続ける条件はそろっていなかった。後者が調べたことは、つくる量を増やすより先に、何を約束できるかを変えています。
案をつくった人、必要な条件を見つけた人、過去の導入でわかったことを残した人。その働きを最後に実装した一人の実績として扱うと、速くつくれる環境を誰が支えたかが消えます。
それでも変更件数で比べたいのは、私が早く判断できるからでしょう。相手には顧客の仕事も理解してほしいと要求しておきながら、その相手を評価する私のほうは、コードを見れば済む状態を続けたい。しかし、学び直すよう言える立場は、学び直さなくてよい立場ではありません。
「最近、成長した」で済ませてよいのか
最初の人物評に戻ります。「受け身な人だから」質問が少ないと思っていた。
しかし、本当に質問は少なかったのでしょうか。「本人が質問を送っていたのに私が見ていなかった」という可能性はないでしょうか。「受け身な人だから」で、私が相手の言葉を聞かなかった落ち度まで説明していないでしょうか。
たとえば、先ほどの評価面談の前に、担当者から届いた記録を読んだとします。そこには、以前に出された改善案もありました。提案の日付は、私が「提案が少ない」と書くより前です。案への返事は止まっています。
次の面談では、その人の提案を認めたいので「最近、成長しましたね」と伝えます。そうすれば、その人の仕事をきちんと見ていると伝わるはずです。しかし、担当者に「その案は前にも出しました」と返されたらどうでしょう。私は「これからも、そういう提案を期待しています」と続けたくなります。
本当に相手の行動が変わったのなら、成長したと伝えてよいでしょう。でも、前からしていた仕事に私がようやく気づいただけなら、伝えることが違います。
相手が成長したのではなく、私が見落としていたこともあります。
誰が変わったのかを曖昧にしたまま「成長しましたね」と片付けてしまうと、以前に私が下した「提案が少ない」という不当な低評価だけが、あたかも正しかったかのように残ってしまいます。
前にも提案していたとわかったなら、その事実を伝え直す。返事が止まっていたなら、誰が返すはずだったのかを調べる。以前の評価を周囲へ伝えていたなら、訂正も私から伝えます。
評価を直しても、すでに決めた次の担当を戻せないことはあるでしょう。その場合も訂正した記録を残し、次の担当候補を考えるときに読みます。いますぐ変えられないことを理由に、間違っていた評価まで残す必要はありません。
もちろん、訂正したからといってすぐに信頼されるとは限りません。以前の評価で失った機会は戻らないかもしれない。それでも、その後の任せ方や私からの返事が変わるかどうかを、きっと相手は見ているでしょう。
評価する側にも「足りないもの」がある
冒頭に戻ります。私が「受け身だ」と思っていた人が、本当は意欲に満ちていたかはわかりません。任せ方を変えれば活躍した、とも言えません。わかるのは、その人が質問をためらってしまう条件を調べず、一方的に「自分から提案しない人だ」と決めつけていたことです。
ここで、もうひとつ告白します。先ほどの場面で、私が「あなたの提案を見落としていました」と謝った後、本当は「もう少しわかりやすく知らせてもらえれば……」と続けたい気持ちがありました。
あの場面で私がやるべきは、止まっていた改善案へ返事をすることでした。それでも、自分の事情をわかってほしい気持ちは、その返事が済んだ後にも残ったはずです。
評価する側にも「足りないもの」がある。この自覚は、常に持っておくべきだと思います。
まだ実績がないとき、設計の案を出しても「言われたとおりにつくって」と返され、理由まで聞いてもらえませんでした。質問を重ねると、「向いていないんじゃないか」と言われました。不当にあきらめられる悔しさは、知っています。
それなのに、かつてあきらめられたことのある私が、誰かを早くあきらめる側になっていた。そこは取り繕えません。
でも当時は、そんな私を応援してくれた人もいました。足りないものを抱えたまま応援してもらった。その経験があるからこそ、「受け身な人だ」という自分の判断を疑うことができた。まだ聞いていない相手の事情を、自ら確かめようと思えました。
もし、完璧な人間になるまで自分を信じてはいけないのなら、私はもっと手前で止まっていたでしょう。「まだできていないことがある」。その事実と、もう少し続けたい気持ちは、いっしょにあります。
この問いを深める2冊
- ロバート・キーガン、リサ・ラスコウ・レイヒー『なぜ人と組織は変われないのか』池村千秋訳、英治出版、2013年
副題は「ハーバード流 自己変革の理論と実践」。変わりたいのに行動が変わらないとき、何を守ろうとしているのかを考える本です。相手の意欲を問う前に、自分が手放せない見方へ戻るために。内面を語ることを、部下が支援を受ける条件にはしたくありません。
- 勅使川原真衣『「能力」の生きづらさをほぐす』どく社、2022年
「能力がある・ない」という評価を、人と人、人と仕事の関係へ戻して考える一冊です。現在の結果を認めつつ、その結果から人の先まで決めないために。相手を見限りそうなときにも、他人の評価で自分を見限りそうなときにも、評価する側の前提を問い直せます。
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執筆
nwiizo
インフラ運用の現場で鍛えられ、現在は株式会社スリーシェイクのソフトウェアエンジニア。技術書翻訳を複数手がけ、nwiizoとしてブログ「じゃあ、おうちで学べる」を運営中。
編集
深水麻初
2021年にサイボウズへ新卒入社。マーケティング本部ブランディング部所属。大学では社会学を専攻。女性向けコンテンツを中心に、サイボウズ式の企画・編集を担当。趣味はサウナ。