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「なぜ意識は実在しないのか」「哲学の密かな闘い」「時は流れず」──techな人にお勧めする「意外」な一冊(18)
tech@サイボウズ式のアドベントカレンダー企画、techな人にお勧めする「意外」な一冊の18日目。原 哲哉さんのお勧めは「なぜ意識は実在しないのか」(岩波書店)、「哲学の密かな闘い」(ぷねうま舎)、「時は流れず」(青土社)。原さんは、アスキー時代にお世話になった先輩編集者です。当時、原さんも私も会社に泊まり込む常連組で、深夜の休憩室などでいろんなことを教えてもらいました。(編集部・風穴)
文:原 哲哉
かつて担当の風穴さんと私は、編集部は異なりますが同じ出版社に在籍していたことがあります。その後、SNSでの繋がりから、今回『techな人にお勧めする「意外」な一冊』のお話を頂戴しました。
普段はベストセラーやミステリ、その時々に読んだ本をダラダラとSNSに投稿しているだけなのですが、ここでは答えの出ない難解な問題に取り組んだ著作をご紹介したいと思います。
心・自分・意識・時間・死に関する三冊
『人生で残された時間が、今日一日で終わるとしたら、何をして過ごしますか?』といった質問があります。この質問のまだ許せる部分は、『今日一日』という期限(時間)を設けてくれていること。
私は子どもの頃から、布団に入って本を読みながら眠りに就く前に、このまま眠ったきりで目が覚めなかったらどうしよう?と考え始め、底なしの穴に落下して行く夢を見るのが怖くて眠れなくなることが何度もあり、歳を取ってからもその癖が抜けません。誰にもいつかは訪れるであろう「死」を、どのように考え、どう受け止めたら良いか、どうしたら怖くなくなるのかが最も大きな問題なのではないかと思います。
私には、身近な人々や可愛がっていたペットが死んでしまった時、今は会うことができないけれど(これから先もずっと会えないかもしれないけれど)、彼らはどこか別の「世界」で相変わらず生活をしているのだろうと考える癖があります(「天国」とは違います)。『どのように「死」を受け止めるか』という問題を、先送りにしているだけだと言われればそれまでなのですが、とにかく「消失」してしまったことを拒否していて、「一応、そう考えておく」ことによって安心しているわけです。
ここから立ち上がるより大きな問題は、自分自身の「死」をどう捉えるか?なのですが、取り敢えずは「自分は死なないことにしておこう」と考えることによって、先送りにしています。
自分自身の「死」ほど、恐ろしいことはありません。この「私」や「自分」が無くなってしまうのは、想像しようにもできない状態です。何かが「ある」「ない」ということさえ意識できなくなる、無意識さえなくなってしまうなんて、もしその時が訪れるとしたら、きっと泣き叫んで、誰かを道連れにするであろうほどの恐ろしさです。年老いた親に聞いてみると「いつ死んでもいい、死ぬことは怖くない」などと言いますが、どうやったらその心境に辿り着けるのかは想像の埒外です。
「私」や「自分」が消失してしまうことは想像さえできない。そこで、この「私」や「自分」をどう捉え考えたら良いかという問題が立ち上がって来ます。もう問題だらけです。
よく上司からの注意で『もっと「自分」をさらけだせ! 本当のお前の気持ちや「心」が分からない』などといった言葉が聞かれます。この注意自体、問題の立て方に大きな誤りがあるように思われます。
『どうして「私」の気持ち(心)が分からないの?』と聞かれた場合、実際に「私」と思われるものを感じるのは、「ある」と自分自身では思っている「私」の「心」だけであり(感覚的には胸のあたりか頭の中)、『どうして「私」の気持ち(心)が分からないの?』と怒られた相手の「私」(「心」)は見たことがありません。つまり「私」という事例は一つだけで、この「自分」自身に「ある」と思っている「私」だけしか感じたことがなく、「自分」以外の「私」を感じたことがないので困るわけです。「主観」と「客観」という考え方自体がおかしいのかもしれません。
この「私」を考える場合、学生時代にデカルトの考え方に共感したのが出発点でした。『方法叙説』に『我思考す、故に我存在す』という有名な言葉がありますが、それ以来、何十年もその言葉を信じて生きて来たように思われますが、ここでまたしても次の問題が立ち上がって来ます。
取り敢えずは、恐らくは明日も生きていられるであろうと安易な予想はできますが、残された「時間」はどのくらいあるのだろうかということです。
歳を取るにつれて私は、時間は流れていないと思うようになりました。過去の楽しかった・辛かった想い出や記憶は、生きている私が改変して跡付けたもので、楽しみにしている将来の夢や展望は、その時が来たらそうなるであろう・そうなりたいと想像しているに過ぎないように思われます。歳を取ったからこそ、そう思えるようになったのかもしれません。
そうすると、「時間」を捉える方法は「今」を切り取るのが都合が良いわけで、「過去」も「未来」も、「私」が「時間」という概念を都合良く利用したに過ぎない記憶と想像ということになります。
しかし、この「時間」という概念を排除することによって、もっと前向きな考え方ができるのではないかと疑っています。とても邪魔になることがあります。
デカルトに共感して以来、その後に続く様々な西洋哲学の古典を読んでみました。カントもヘーゲルも、ニーチェもハイデガーも、フッサールもマルクスでさえ、「心」「自分」「意識」「時間」「死」に関して、納得できる解決策を提示してはくれませんでした。確かにその時々で、考え方に感動したり、ある程度は安心できる考え方に巡り会ったことはありますが、ほとんどが失敗作の連続だったように思われます。そこには、更に「世界」「身体」や「経験」という、手垢で汚れた問題が纏わり付いて来て、問題をより複雑にしています。
「問題の立て方」に問題があり、間違った「問題の立て方」をしていて、その問題に対して一生懸命解決策を求めていたからこそ、結局間違っていたなんていう思想もあったように思います。その中で、「私」の中では現在、「最も座り心地の良い考え方」を示してくれたのが、ここで紹介する三冊です。
※【参考】『なぜ意識は実在しないのか』(永井 均)に関しては、大阪大学文学部制作・発信のウェブ・ラジオ放送局「ラジオ・メタフュシカ」で、講演を聴くことができます。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/philosophy/Radio/handaimetaphysica.html
などと言っても、これまで書いて来たように、この三冊を読んだからといって、私が恐れている問題は、何一つ解決の道さえ見えていないわけで、既にこの時点で「問題の立て方」に誤りがあるのかもしれません。
「どのようにして問題を解決するのか?」ではなく、「どういう切り口で問題を立てるか?」にある気がしているのですが、もっと根源的な「言葉」というモノ自体を切り口にしてみることが、迂回しているようでありながら近道なのではないかと最近は思えるようになって来ました。『始めに言葉ありき』ではありませんが、2014年はキチンと『聖書』を読んでみようかと思っています。それとは別に『神』という概念を導入することによって、新たな視野が拡がるのではないかと思うようになりました。
ふと想い出したのですが、かつて出版社で雑誌の編集をしていた際、Windowsを徹底的に追い掛けていた時代がありました。その時、私は「カーネルには神が宿っている」と思っていました。その後、ソースコードを見る機会があったのですが、Windowsカーネルの中に「神」は見付かりませんでした。(了)
原 哲哉さんのプロフィール:
かつて株式会社アスキーで雑誌や単行本の編集者をしていました。現在はソフトイーサ株式会社にいます。趣味の読書は年間150冊、映画は150本が目標の、徹底的な紙大好き人間です。夢は、ギリシアの碧い海を眺めながらプラトンを読んで生活すること。それとラテン語を読めるようになること。
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