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ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔第3回:超芸術と超プログラム
元祖ハッカー、竹内郁雄先生による書き下ろし連載(毎月下旬に掲載予定)の第3回。今回のお題は「超芸術と超プログラム」。
ハッカーは、今際の際(いまわのきわ)に何を思うのか──。ハッカーが、ハッカー人生を振り返って思うことは、これからハッカーに少しでも近づこうとする人にとって、貴重な「道しるべ」になるはずです。
本連載は、毎月第4週に掲載していく予定です。竹内先生への質問や相談を広く受け付けますので、編集部、または担当編集の風穴まで、お気軽にお寄せください。(編集部)
文:竹内 郁雄
カバー写真:
Goto Aki
前回、「學問のすすめ」と題して、他愛のないことを書いたが、世の中的には近代倒語學よりはるかに認知度の高い「路上観察學」なる學問がある。なにしろ立派な本が出版されている。
「路上觀察學入門」(赤瀬川原平、横森照信、南伸坊 編、ちくま文庫、1993年)
カバータイトルは舊漢字であるが、カバー以外は、背表紙も含めて、すべて新漢字「路上観察学」と印刷されている。うーむ、初志貫徹が足りぬ。それはどうでもよくて、これは、
「超芸術トマソン」(赤瀬川原平、ちくま文庫、1987年)
を源流とする、真面目な學問である。寒風吹きすさぶくぬぎの粗林で、3分程度で創成された近代倒語學とは思想性のレベルが違う。
トマソンとは、1982年の読売ジャイアンツの4番バッターで、三振ばかりしていたことで有名な元大リーガー選手である。その「無用の長物」感が「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物」を象徴するピッタリとした術語として採用されたのだった。芸術家が芸術だと思って作るのが芸術。しかし超芸術とは、超芸術家が超芸術だともなにとも知らずに無意識に作ったものであり、発見者・観察者がそれを超芸術として認めることによって初めて存在が確立するものである。詳しいことは、抱腹絶倒的に面白くて読みやすい上記の本を参照されたい。
さて、私は2011年から2013年までの3年間にわたって、エジプトのアレクサンドリア郊外にあるエジプト日本科学技術大学(E-JUST)の創立に協力するために、1年に約4カ月ほど渡り、講義や学生指導を行った。ちなみに、エジプトに渡ることを「渡埃」と書く。つまり、埃の国に渡るという漢字を充てる。エジプト出身の力士、大砂嵐とはまさに言いい得て妙な、細粒度の砂埃が多い国である。そこで、私はエジプト版超芸術トマソンをいくつか発見した。その典型例を紹介しよう。上記の本によれば、ちゃんとした発見報告書式があるらしいが、今回はご勘弁。
まず写真1をご覧いただきたい。これは我々日本人関係者が常駐していた5階建てのサクラビルの正面である。例によって玄関灯がちょっと傾いていることを除いては特段不思議なことはない。え、どこがトマソン? 実は、撮影の2年前はこうではなかった。当時、この写真で黒く塗られた鉄の門扉は、実は扉ではなくすぐ隣と同じ鉄冊の塀だった。では、どこから我々は出入りしたか?
写真2が当時の出入口である。出入口? 実は、当時、この塀は敷地の3面だけが出来ていて、まだ東南の側面ができていなかった。だから、踏台の石を置いて、なんとかそこを上り下りしていたのである。
しかし、2013年初頭に、ようやくキャンパス全体を取り囲む塀が完成した。そして、写真3のような本来の超芸術トマソンが生まれた。つまり、階段があるのに、その行き先にはちゃんと塀がある。つまり、この階段は「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物」、分類學的には「純粋階段」なのである。
ふーん、おもろいなぁ、とここまで読んできたテックな方々。なにか違和感がないだろうか? なぜ、写真1のように、最初からここを門扉にしておかなかったのだろうか? そして、塀を作る予定なら、なぜ写真2のような階段を作ったのか?
写真4を見ていただきたい。これはGoogle Mapsの引用である(筆者注:ムバラク時代のエジプトのGoogle Mapsの航空写真は鉄道の駅に必ず雲がかかっていた。解像度も低かったが、革命後、非常に精緻な写真になった)。サクラビル正面が黄色の矢印で示されている。その東南の大きな空き地は、長い折衝の末、E-JUST付随のスポーツ設備やショッピングセンターの用地として確保できることになった希望の土地である。ここにソーラーシステムを備えた近代的建築ができるという青写真、あくまでも青写真、が描かれている。
だとすれば、この空き地に面した、写真3のトマソン階段(写真4では赤の矢印)はちゃんと階段として復活するのかもしれない。だが、写真1の門扉(黄色の矢印)の作り直しは、やはり単に無駄なだけで、謎だ。ちなみに仮出入口は緑の矢印で示した。うーむ、好奇心は募るばかり。最近はひどくなくなったが、縦割り管理のおかげで、道路の掘り返しが無駄に行われていた日本の過去を思い出すと、実はそう不思議なことではないかもしれない。しかし、塀と門扉が縦割り管理なのだろうか。
ついでながら、写真4の青の矢印で示した長方形の「図形」は、重機で掘られた深さ3メートルほどの大穴である。E-JUSTがこの広場の確保に成功したときに、何者かが自己の所有権を示すために、一夜(当然夜中)で掘ったと聞いた。不思議なことをする人がいるものだ。これは純粋に単なる穴なので、「純粋穴」なるトマソンかもしれない。
地下にはまだ怪しいものが一杯残っているらしいが、もう東京で超芸術トマソンを発見するのはかなり難しくなったと思われる。しかし、エジプトではまだまだ見つけやすい。
いきなりだが、そもそも超芸術トマソンの発見とは、プログラムの中のバグ発見と同根である。バグとは、「プログラムに付着していて美しく保存されている無用の長物」(実は、単に無用ではなく、有害なのだが)であり、超芸術家たる、というか、超プログラミングを実行する超プログラマが、バグだともなにとも知らずに無意識に作ったものであり、発見者・観察者がそれをバグとして認定するものなのである。超プログラマが「それは仕様です」と強弁しても、観察者の客観的な目はごまかせない。
超芸術トマソンの提唱者、赤瀬川原平によれば、まずは各種のトマソンの分類學があった。しかし、いわく「つぎつぎとぶつかる新しい物件に新しいトマソン構造を見つけ出して、気持はわくわくとしていた。ところが各種の物件が超芸術トマソンの論理の位相をおおよそ埋め尽くしてくると、やや気持のわくわくがなくなってくるのだ」。これを見ると、プログラマはまだバグの論理の位相を埋め尽くしていない、あるいは性懲りもなく(過去を忘れて)同じことを繰り返しているのかもしれない。私はバグを見つけると、いつもわくわくする。えっ? しない? それは困った。私は超藝術家である自分が生み出したバグを、発見者・観察者の立場になり代わって見つけるのが大好きだった。カッコ良く言っているが、要するに単なるマッチポンプだな、こりゃ。いや、より正確には独りドラクエの気分だ(自分でダンジョンを作っては、自分でそれを遊ぶ)。
プログラマは実は(本当はなってほしくない)超芸術家、あるいは超プログラマなので、やはりというか責任上、自ら超芸術トマソンの発見者・観察者にもなる必要があるのではないか。既存の路上觀察學會の方々をお呼びしても、力にはなってくれない。
では、バグ発見の極意はなにか? 私が思うに、トマソンを発見するときと同じで、違和感を感じるセンスである。街を歩いていて、あれっと感じる違和感と、プログラムのバグを見つけるときに感じる違和感は、ほとんど同種なのではないか。私は50歳周辺で1万行を超える16進数ダンプを追う、今どきはあり得ないレトロなデバグ(通常はデバッグと書くが、ここではデバグと書く)をしていたのだが、これを支えたのが違和感感覚であった。
街角や観光地を歩いていて、あれっと思う違和感。経験したことありますよね? 今でも思い出す、宮崎は高千穂の駐車場。「1般駐車場」という看板があった……。1970年代前半、山口県に出張したときにバスの中の広告で見つけた「ホリエの冷暖房コタツ」(筆者注:直後にメーカに電話で確認したところ、実に合理的な説明を受けた。読者諸兄は次回まで、これがなにかを想像する楽しみを味わっていただきたい。いまふと見たら、夏冬兼用コタツなるものがネットで売っているが、それとは違う)。1970年代後半、東京の路線バスで見つけた伊勢丹百貨店の紳士服の広告「情報化時代のソフトウェア」などなど。こういうのが、違和感感覚があると、相手のほうから寄ってくるというか、見るともなく見つかるのだ。
なにを言いたかったかというと、本来の超芸術トマソンを発見する違和感感覚は、デバグに役立つはずということだ。実際、私の知合いの凄腕プログラマはこの感覚が鋭い人が多いし、そもそもそれらを面白がる。
この話題にきっと関係すると思うが、1980年代に某大会社の人から聞いた話。銀行の利息計算などに必須の日数計算(何年何月何日から別の某年某月某日までの日数の計算)のプログラムの行数が恐ろしく大きいという。日数計算はプログラミング入門では標準的な練習問題であり、10行程度で書けるプログラムのはず。いかな銀行向けのソフトといえども、そんなに大きくなるのかなぁ、じゃ、数百行?と聞いたら、なんと10万行であった……。違和感どころか、あり得ない! 私はそのとき、バグではない、本来の無用の長物、超芸術トマソンがすべてを占拠しているのではないかと思ったが、いまだにその真相を知らない。利息計算に関する監督官庁の規定などがいろいろあるにはあるようだが……。まさか利息計算に閏(うるう)秒までが考慮されてる? でも、10万行のすべてが実際に走っていたとはいまでも想像できない。実は塀と門扉が縦割りで分化されたようなチームが開発した?
現在世の中に流布しているほとんどの巨大ソフトウェアは、こういった、触るに触れない、大量の元祖トマソンを抱えているのではなかろうか(筆者注:ソフトウェアだけではない、かのインテルCPUにも、もう不要だろうと思われるレベルの下方互換性のために、トマソン的論理回路が一杯仕込まれているようだ。インテルのCPUは「個体発生は系統発生を繰り返す」をどことなく思い起こさせるものがある)。これはバグというより、トマソンの原義にある「無用の長物」、つまり無駄である。
みなさん、健康のためにも、バグや無駄の発見能力としての違和感感覚を養成するためにも、街に出て超芸術トマソンを発見しに行きませんか?
(つづく)
追記:
前回予告した、m□n□問題の予想外の答えは、百姓一揆。百も一も、すでに数としての意味がほとんど残っていないのが見事(もちろん本来は数としての意味あったのであるが)。あと、ひょっとして、真面目に検索をかけた方がいらっしゃったかもしれませんが、「倒語學序論」は実際に手書きで書いたものの、その中身の黄表紙作家や「學狼記」は、すべて私の捏造です。ご迷惑をかけました。
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