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ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔第5回:つぶ餡と漉し餡
元祖ハッカー、竹内郁雄先生による書き下ろし連載(毎月第4週に掲載)の第5回。今回のお題は「つぶ餡と漉し餡」。
ハッカーは、今際の際(いまわのきわ)に何を思うのか──。ハッカーが、ハッカー人生を振り返って思うことは、これからハッカーに少しでも近づこうとする人にとって、貴重な「道しるべ」になるはずです。
本連載は、毎月下旬に掲載していく予定です。竹内先生への質問や相談を広く受け付けますので、編集部、または担当編集の風穴まで、お気軽にお寄せください。(編集部)
筑波大学に加藤和彦さんという情報系の先生がいらっしゃる(写真1)。オペレーティングシステム、分散システムといった分野での有名人だから、ご存知の方も多いと思う。ちなみに「加藤和彦」で検索すると、うつ病、多額の借金、早すぎた天才などという加藤和彦さんのキーワードが一杯出てくるが、ここで登場する加藤さんとは無関係である(早すぎた天才でないということは言ってない、念のため)。
筑波大の加藤さんの大きな特徴は、顎から口にかけての潤滑システムの滑らかさである。ついでにフォルマント(人の声のスペクトルに見られる複数のピークのこと)の特性により、よく声が通る。つまり、遠くから声がよく聞こえる。だから、加藤さんと議論して勝つのは難しい。
だが、負けられない議論もある。1990年ごろ、泊まり込みのオブジェクト指向計算ワークショップ(WOOC、いまはこれを上下逆さまにしたMOOCのほうがブームかな?)が終了した後、みんなで貸切りバスに乗って帰路についた。バスの最前列に座った加藤さんと私は、いつのまにか、つぶ餡・漉し餡に関する激しい議論をしていた。議論に勝てる加藤さんの声とはいえ、この件で負けるわけにいかない。他の参加者(乗客)はただひたすら黙って2人の大声の議論を聞いて、こっそり笑っていたのであった。バスの運転手が運転を誤らなくてよかった、としみじみ思う。
もちろん、私は全国漉し餡撲滅聯盟の副会長をやるくらいのつぶ餡派、加藤さんは肩書はよくわからないが硬派の漉し餡派である。単にお菓子の好き嫌いの話なのだから、そんなに口角泡を飛ばすほどのこともないのだが、私が「漉し餡はつぶ餡に劣る。つぶ餡の艷やかな食感と濃い甘味こそがアンコの命」と言えば、加藤さんは「漉し餡の上品な佇まいと甘さこそが雅の世界」と譲らない。たしかに漉し餡のほうが手間が多くかかっている。だから高級菓子によく使われる。一方、最近私が愛食している8個198円の超安価最中や、それといい勝負の格安アンパン(写真2)はつぶ餡だ。しかし、人月のかかったソフトのほうがいいとは誰も信じていない。このような、水掛け論ならぬ餡掛け論がしばし続いたのであった。
アンコについて激論を交しているうちに、ひょっとして?と思い、私が尋ねた。「ひょっとして加藤さんはカレーライスを最初に全部混ぜてから食べるのではないか?」。予感はばっちりと当たった。彼は混ぜてから食べるのである。私は絶対に混ぜない。実はこれこそが問題の本質を暴く、核心を突いた質問だったのである。ここに近代倒語學の誕生と同じ香りがする……。なにがどう核心を突いていたかは、以下の表を見て、まずはご自分でお考えいただきたい。
ここから、バトルとしての議論ではなく、よくもここまでと、お互いに呆れながらの事例の投げ合いとなった。大昔のことなので、残念ながら全部は再現できないが、10数個はあった。で、ほんの1~2個の弱い例外を除いて、私は左側、加藤さんは右側が好きとなったのである。加藤さんは、濁りリンゴジュースに至っては、あんなものはリンゴジュースじゃないとまで断言した。
つぶ餡 |
⇔ |
漉し餡 |
濁りリンゴジュース |
⇔ |
透明リンゴジュース |
粒々入りオレンジジュース |
⇔ |
粒々の入っていないオレンジジュース |
カレーライスは混ぜないで食べる |
⇔ |
カレーライスはまず丹念に混ぜる |
ツミレ |
⇔ |
カマボコ |
目玉焼き |
⇔ |
プレーンオムレツ |
半殺しのおはぎ |
⇔ |
餅のおはぎ |
一度に並んだ料理は順番に食べる |
⇔ |
万遍なく箸をつけて一様に食べる |
木綿豆腐 |
⇔ |
絹漉し豆腐 |
ハム |
⇔ |
ソーセージ |
粒マスタード |
⇔ |
練りマスタード |
果実の原型を留めたジャム |
⇔ |
果実の原型を留めないジャム |
味噌汁 |
⇔ |
お澄し |
マッシュしてないポテト |
⇔ |
マッシュポテト |
ここにある「半殺しのおはぎ」を知らない人がいるかもしれないので、説明しておく。おはぎの中身は餅米だが、米の粒感が残る程度に留めたのが「半殺し」である。田舎の一軒家に泊めてもらった客人が、爺と婆が夜遅く、ひそひそ声で「明日の朝はやっぱ、半殺しのほうがいいべ」で会話しているのを聞いて、慌てて逃げ出したという昔話があった。これは客人に出すおはぎの中身をどうするかの議論だったのだ。なお、よくついた餅は「本殺し」とか「皆殺し」と呼ぶそうな。
それにしても、おはぎ恐るべし。外側のアンコと内側のもちの様態で4通りの組合せがある。さらに、つぶ餡・漉し餡対立は、田舎汁粉・御膳汁粉対立にまで拡張される。私はもちろん田舎汁粉派だ。小豆は日本の誇るべき食芸術の素、かつ争いのタネだったのだ。そういえば、小豆相場が投機の対象となり、赤いダイヤモンド(いまなら、Rubyだろうが)と呼ばれたことがあった。なお、ついでながら、半殺しつぶ餡おはぎのつぶ餡には蜂蜜、あるいは水飴を入れるべきである。味の艷も見かけの艷も違う。
さて、この表の含意するところは明らかである。左側は、異質(ヘテロ)、粒々、不透明。右側は、同質(ホモ、一様)、粉々、透明、という概念でくくることができる。多くの人は、左側が好みか、右側が好みか、はもっとばらけるのではないだろうか。加藤さんも私もそういう意味ではコンシステンシーというか、一貫性が高かった。お腹に入れば同じだろうなどと無粋なことを言ってはいけない。なんたって、食品の口当りなどを研究するサイコレオロジーなる學問があるくらいだから、人々の生き甲斐に関わる深遠な問題なのだ。
しかも、面白いことに、この一貫性は当時の2人の研究対象の指向にも及んでいた。私は当時、関数型、論理型、オブジェクト指向といったものを合体したマルチパラダイム言語とか、ヘテロ並列とか、ヘテロな計算システムに興味をもっていたが、加藤さんはもっと均質で透明性の高い分散計算システムに興味をもって精力的な研究を進めていた。ちなみに、当時のソニーのプレステはかなりヘテロな構成で、任天堂のスーファミが割とホモな構成であった、ということもついでに思い出される。
つぶ餡と漉し餡の好みが、研究の指向するところまで左右するとは驚きだが、なんとも奥深いコンシステンシーでなかろうか。読者諸兄に見習ってほしいとは決して言わないが、わかりやすいことは間違いない。
ヘテロとホモの関係はいろいろなところで根深い。うろ覚えだが、生体とか社会のような巨大なシステムはヘテロな層とホモな層が交互に階層をなして出来上がっているという、小脳の研究で有名な伊藤正男先生の文章が思い起こされる。正確な出典が思い出せないが、たしか「計測と制御」の学会誌だったと思う。脳に限ればもっと精緻な階層構造があるようだ。社会にまで視野を広げたこの説には、私の記憶違いがあるかもしれない。予めお許しいただきたい。
- 分子(いろいろな高分子がある)
- 細胞内組織(組織内の分子はほぼ同質)
- 細胞(細胞内にはいろいろな細胞内組織がある)
- 器官(一つの器官内の細胞はほぼ同質)
- 人体(人体には多種多様な器官がある)
- 人(日本人といってもいろいろな人がいる)
- 民族(一つの民族は文化・言語が同じという意味ではほぼ同質)
- 人類(世界は多種多様な民族からなる)
だから、ヘテロとホモは相補的であると言えよう。どちらか一方が欠けてもあかんということか。めでたし、めでたし。
しかし、これで話は完結しない。つぶ餡と漉し餡には、もう一つの尺度が絡む。科学あるいは舌の対象として、ヘテロなつぶ餡は複雑で、ホモな漉し餡は単純なのである。だから、上記のコンシステンシーを押し進めれば、私は「複雑系」に食指を伸ばさざるを得なくなるのである(?)。
実際、加藤さんと議論したころから、複雑系が大流行し始め、私も少しかじったことがある。それは、コンピュータ科学の分野に、インターネット、マルチエージェントシステム、人工生命などという具体的な複雑系が関係しだしたからである。それに、プログラミングやソフトウェア開発がなぜかくも「複雑」かという問題意識もあった。
私がかじったのは「複雑系」随筆本ではなく、本家「複雑さの理論」のほうだ。ご存知のように、アルゴリズム論では、比較によるソーティングは、データ個数nに対して平均でO(nlog n)の比較回数が必要であるといった知見がある。いわゆる計算量のことであるが、これを別の言葉では計算量的複雑度という。これとは別に、シャノンの情報理論に触発されて考案された「コルモゴロフの複雑さ」がある。これは記述量的複雑度とも呼ぶべきものだ。大まかに言うと、与えられた数字列を生成する最短のプログラムの長さのことである。たとえば、01をずっと繰り返すような数列だったら、とても短いプログラムで生成できる。しかし、サイコロを振って生成されるような乱数列は、その長い数列自身をプログラムに定数として埋め込むぐらいしかできない。だから、コルモゴロフの複雑さでは乱数列が一番「複雑」な数列ということになる。円周率πの10進展開は統計学的な意味では乱数列だが、なにしろ1兆桁であっても、それよりはずっと短いプログラムで、時間さえかければ生成できるので、本物の乱数列ほど複雑ではないのだ。だから、カジノではπの10進展開をサイコロ代わりには使えない。
それにしても妙だ。デタラメを意味する乱数が最も複雑とは……。という疑問が、実は私の「かじり」の出発点だった。するとまぁ、いろいろあった。中でも最も気に入ったのが元は化学者だったベネットが考案した「論理深度」の概念である(※1)。
論理深度を数式を使わずに極めて大雑把に説明すると、コンパクトにしたプログラムが結果の数列を出力するまでにどれくらい時間がかかるかの程度を意味している。これが大きい、つまり深いと、記述をコンパクトにできた代償を計算時間で支払っていることになる。πはこの意味である程度は深いことになる。
論理深度の定義によれば、規則正しい数列や、定数を順に出力するだけでいい、というかそれしか方法のない乱数列は浅く、その「中間」に深いものがあることになる。これは、複雑系を複雑だと思う直観を裏づけているように思われる。ベネットは次のように言っている。「一見ランダムに見えるが、微妙に冗長な構造が深い。自然界に発生したDNAのような組織的情報は、単純な原理に基づいているが、とてつもなく長い生物学的プロセス(計算)の結果生まれたものである」。ベネットの論理深度の意味するところを敷衍すると、我々の世界が単純な統一原理で記述されていたとしても、それに基づいて実際的な予測を行うことは計算量的に不可能だということが示唆されている。
これらの直観的な説明はカオスのもつ複雑性をうまく言い表わしているように思われる。実際、カオスにおける、見かけのランダム性に埋め込まれた冗長性、記述(基礎方程式)の驚くべき簡潔性、初期値過敏性などによる予測不能性などと見事な符合がある。
さて、これが「プログラムは複雑だ」という直感をどう裏付けるのか。「『中間』に複雑なものがある」というのがそのカギなのだろうが、今回は面倒っちい話が続いたので、このあたりで打ち切りたい。
そういえば、餅の周りに小豆の粒そのものを張り付けたようなおはぎ(?)もある。役者は揃った。原型のままの小豆の集合体と、ほとんど乱数ともいえるような一様な漉し餡(どちらもホモな構造)の中間にある、半殺し的つぶ餡(ヘテロな構造)は、見かけのランダムさに埋め込まれた微妙な冗長性をもつのだ。これが、ベネットによって理論的に裏付けられた、つぶ餡の味わい「深さ」の所以なのである。メデタシ、めでたし、メでタし。
それにしても、お土産屋の温泉万頭は外見だけからは、つぶ餡か漉し餡かわからない。これは困ったことだ。格安でないアンパンには識別子が付着しているのだが……。みなさんは温泉万頭を買うときに、ちゃんとアンコがどの種類か訊いてますか?(つづく)
※1:彼は学生時代にコンピュータシミュレーションを駆使していたとはいえ、化学者がこんな理論を生んだことにやっぱり衝撃を感じる。日本もこうでありたいですねぇ。
【追記】
原稿を出してから気がついたこと。実は、私は結構自分で料理をつくる。ふと思い出したのが、10年ほど前にヨーロッパ土産としてもらった塩。これをずーっと大事に使っている(写真3)。「Pure White Sea Salt,Halen Mon」(Wales産)だから、海の塩のはずだが、粒が非常に粗い──2mm四方の平板のもある。この塩自体が非常に美味しいというよりも、これをパラッと振りかけると、料理に塩の濃いところがスポット的にできる。つまり、万遍ない塩味ではなくて、塩味の濃淡が生じる。スープの場合は、振りかけたあとスープを混ぜない。これが舌に非均質の喜びを与えるのだ。つぶ餡ならぬ、つぶ塩。うーむ、やっぱり、私の理論は盤石かも。
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