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定義の理解にかける時間を飛ばしても意味がない──エンジニア・光成 滋生(3)
サイボウズ・ラボの西尾 泰和さんが「エンジニアの学び方」について探求していく連載の第20回(これまでの連載一覧)。サイボウズ・ラボの光成 滋生さんにお話を伺うシリーズ(3)です。
本連載は、「WEB+DB PRESS Vol.80」(2014年4月24日発売)に掲載された「エンジニアの学び方──効率的に知識を得て,成果に結び付ける」の続編です。(編集部)
前回、数学科での「教科書を読む」は、一歩一歩きちんと自分の言葉で説明できるか確認し、分からなければ絶対に先に進まない読み方だと伺いました。この読み方は小崎さんが第6回で語っていた「分からなくてもとにかく読み進めることが大事」という主張とはまったく逆です。この違いはなぜ起こったのでしょう?
数学科での「教科書を読む」とは、きちんと自分の言葉で説明できるまで先に進まない読み方だと理解しました。これは実は以前インタビューした小崎さんの意見と反対なんです。小崎さんは「分からなくてもとにかく最後まで読むことが大事」という意見でした。
小崎さんは物理学科ですよね。
物理ですね。
物理はまた違うと思うんです。物理には現象があるので、それをざっくり説明するパターンのほうが多かったですね。学部の最初って、逆転現象が起こるんです。物理で出てくる数式を、数学ではまだ教えてない。そういうときは「こういう数式で表現するんだ、とりあえずそういうもんだ」と認めて、イメージを先に作っていくスタイルになっちゃうの、最初は仕方ないと思うんですよね。
なるほど。
実際、物理の素粒子や量子力学って、実際の現象に対して何となく数式っぽいもので理論を構築して、数学が後からそれを厳密化していったケースも多いんです。物理の人は直感で理論を作っていって、それが正しいことを後追いで示すのはありなんです。ならば理解だってそんな風に先に進んでいったっていいと思います。
物理は自然現象が先にあって、それを表現する目的のために数式を手段としてモデルを作る。一方数学は自然現象とか関係なく、人間がロジックを積み上げて作っていってる。その違いが学び方に出てきてるんでしょうか。
そうだと思います。数学で難しいのは、ある定義が与えられたときに「何でそんな定義なの」と理解する部分が大きい。例えば2回生とか3回生の位相空間で開集合の定義が出てくるんですけど、わけ分かんないんです。1、2回生で「開区間」の概念を教えるときは「両端含まない、Aより大きくてBより小さい区間を開区間と言う」と教えるわけです。両側空いてるんだから開区間、閉じてたら閉区間だ。分かりやすい。
物理的なイメージがあるわけですね、
ところが3回生で「開集合」の概念を教えるときは「この条件を満たすものを開集合と言う」って教える。いきなり逆転するんです。
参考までに岩波数学辞典第3版による開集合の定義を、数学記号を日本語に置き換えて雰囲気だけお伝えします。
集合Xの部分集合の集合Dが
の3つの条件を満たすとき、Dを開集合系と言い、Dに属する集合Oを開集合と言う。
- Xと空集合を含む。
- O1、O2がDの要素ならO1とO2の共通部分集合もDの要素である。
- ある集合Λのすべての要素λについてOλがDの要素であれば、ある集合Λのすべての要素λについてOλの和集合をとったものもDの要素である。
性質で定義されてるわけですね。「こういう性質を持ったものは、何であっても『開集合』だ」、と。それまでは「『開区間』というのはこうものだ」と定義してから「開区間にはこういう性質があります」と性質を語る方向だったのが、逆転するということですね。
うん、で、これを理解するのにすごく考える、すごい時間考える。
それは「この条件を外したらどうなるのか」っていうのをいろいろ試してみる?
それもそうだし、一番単純な例では「ああ、これも開区間、これも開区間」って書くわけ。例えば測度論をやるまで「面積」なんて当たり前にあるものだったわけです。
面積なんて自明だと思っていた、と。なのに……。
それが測度論になったら「何々を満たすものを面積と言う」と言われて「はあ?」みたいな。
参考までに岩波数学辞典第3版での測度論の説明を、数学記号を一部日本語に置き換えて雰囲気だけお伝えします。
空間Xの有限加法族Mを定義域とする実数値の集合関数mが
の2条件を満たすとき、mをM上の有限加法的測度と言う。
- 値域が0以上無限大以下で、空集合φについての値m(φ)は0。
- AとBがMの要素で、AとBの共通部分が空集合なら、m(AとBの和集合)はm(A) + m(B) である。
素朴に考えている「面積」というのは、この有限加法性測度の一例です。
なるほど。
何でそれが面積と呼ばれるものなんだっていうのを考える。これにすごい時間がかかる。
そこに時間をたくさん投入して基礎をかっちり固めることが後々有益だということですね。少なくとも、時間がたくさんある学生さんに対しては。
有益というか……数学はそこが大事なんだと思います。
判断基準が「有益かどうか」じゃない?
物理の勉強法で「説明したいこと」があって、その説明のために多少のギャップに目をつぶりつつ、飛び石でポンポン進めて全体像を理解するのと、数学の勉強法で「定義」があって、なぜそうなったのか、もっといい定義はないのか、と考える訓練をするのでは全然方向性が違う。だから定義の理解にかける時間を飛ばしても意味がない。
なるほど。「全体を俯瞰する」ことと「ブラックボックスなく理解する」ことはゴールの設定が異なるのだから、時間の使い方も異なるということですね。
「有益かどうか」とは違う基準
僕は「有益かどうか」が何をどう学ぶかの判断基準なのですけど、光成さんは「これを学んで有益かどうか」ってことはあんまり意識しないのですか?
まあ、そうですね。
価値観の違いがあるんですね。有益かどうかで決まらないのなら、何で決まるんですか?
何だろうな。いかにシンプル、きれいか。
数学の方がおっしゃる「きれい」という言葉は、一般の人には伝わりにくいですね。
物理だって、シンプルな、一番条件が少ないものがいい理論って言いますよね。
少ない条件でシンプルに記述できるものが良い、と?
でもそういうの勉強するときってもう既に与えられたものが多いからなあ、何だろうな。何が本質かっていうのを考える?
本質とは?
何だろう……。本質、何だろうな……。
何が本質かっていうのは分からないけど「本質を追い求めよう」という強いモチベーションがあるっていうことなんですかね。「真に正しいものは何か?」みたいな?
正しい、正しい……。あるものを説明するときに、一番そぎ落とした方法で……、これだと同じ話になっちゃうな、本質か。
そぎ落として一番簡潔な方法で説明したいということですか?
そうなんでしょうね、たぶん。
小崎さんのやり方と光成さんのやり方の違いがなぜ発生しているのか疑問に思っていましたが、光成さんの「有益かどうかは気にしない」という発言で、はたと気づきました。これは小崎さんの「物理屋さんは心に闇を抱えていて、勉強しても役に立つことはないという思い込みがあるんです。しかし、そこらじゅうをつまみ食いしていくと、意外と役に立つときもあるんですよ、という経験ができた。そうすると、分からないものを勉強するときに心が前向きになれる」という発言と対照的です。
小崎さんは有用性に価値を見出しています。なので、「分からないものに対して意外なところで役に立つことがある」という経験から有用性を見出し、学ぶモチベーションを作り出しています。一方、光成さんは有用性に価値を見出していません。分からないものに対して「分かりたい」「犯人を見つけたい」という欲求が、学ぶモチベーションを作り出しているようです。
有用性に対しての価値観が違うから、やり方の違いが出てきているのですね。興味深い話でした。
ところで「一番条件の少ないものが良い」という考え方は、エルンスト・マッハの「科学の根本的原理は、なるべく多くの現象をなるべく少数の概念で記述することで、考える労力を節約することだ」(思惟経済説)の流れを汲むものなので、実はこれも有用性の視点なんですよね。物理学と数学が大きく違うのは「現象」の部分です。物理学は人間の外にある現象を扱うのに対し、数学は人間が考えることで作り出した現象も扱うわけです。
さて、次回は「教科書を読もうとしたら数式だらけだ! どうしたらいいんだ!」というFAQについて光成さんに聞いていきたいと思います。(つづく)
「これを知りたい!」や「これはどう思うか?」などのご質問、ご相談を受け付けています。筆者、または担当編集の風穴まで、お気軽にお寄せください。(編集部)
謝辞:
◎Web+DB Press編集部(技術評論社)のご厚意により、本連載のタイトルを「続・エンジニアの学び方」とさせていただきました。ありがとうございました。
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