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ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔
第27回:やっちまった
元祖ハッカー、竹内郁雄先生による書き下ろし連載の第27回。今回のお題は「やっちまった」。
ハッカーは、今際の際(いまわのきわ)に何を思うのか──。ハッカーが、ハッカー人生を振り返って思うことは、これからハッカーに少しでも近づこうとする人にとって、貴重な「道しるべ」になるはずです(これまでの連載一覧)。
文:竹内 郁雄
カバー写真: Goto Aki
長い人生「あぁ、やっちまった」ということはしばしばある。私も当然そうである。しかし、「やっちまった」の記憶をまさぐろうとすると、意外に思い出せない。決して、「しばしばやっちまわなかった」(「やっちまった」の否定形?)わけではなく、どうも「やっちまった」ことの記憶を半自動的に忘却する脳内メカニズムがあるらしい。いわゆる忘却式健康法である。私はこの健康法に長けているようだ。
と思ってググると、「忘却式健康法」という言葉は見つからない。でも、イヤなことはさっさと忘れるべきといった記事はたくさん見つかる。面白かったのは、イヤなことがあったら、ちゃんとそれを記録として書き下すという方法である。書き下すということで、一種の抽象化を行い、個別のイヤな記憶を消し去りやすくするというのだ。
「イヤなことを確実に忘れる」意外な方法(佐々木正悟)
その心は、個別の事象の記憶、つまり「エピソード記憶」は、抽象化することによって、一般的な「意味記憶」に変化してしまうというところにある。具体性が少なくなれば「イヤ感」が弱まるということなのだろう。
齢を重ねてくると、「エピソード記憶」だろうと「意味記憶」だろうと、記憶そのものの力が衰えてくる。脳のキャパの問題があり、忘れないと、記憶を溜める場所がなくなるのではなかろうか。最近の私の「忘れようとしても、覚えられない」境地はここから来ている。
そういえば、私は飲み会で聞いたことや、自分が発言したと言われていることを、相当高い確率で忘れてしまう。さらに「あれ、この店、前に来たことあるでしょう。覚えてないの?」と言われても思い出せないことが多い。つまり、飲むということは、それ自体忘却式健康法の正しい実践なのである。このような重要な「意味記憶」は心の奥底に沈澱して、決して忘れ去られることはない。
それでも「やっちまった」のエピソード記憶を探ると、中学1年生のときの「テープもじゃもじゃ事件」に思い至る。中学時代を通じての悪友、酒井吉弘君(だと思う、おお、このあたりまで忘れている)とはアホなことばかりやって遊んでいたが、英語の勉強を一緒にしようということでも一致した。しかし、「You are a madman」を単語ごとに反転して「Uoy era a namdam」(ウオイ エラ ア ナムダム)と発音するのを挨拶に使う程度でお茶を濁していた。そんなんで英語がうまくなるわけがない。それでも、英語の先生に勉強熱心と思われたらしく、中学校の中にある狭い畳敷の部屋(教職員の休憩室のような部屋だったのだろうか?)に案内されて、「この部屋でこの英会話のテープを聞くといいよ」と言われた。1959年ごろだろう。
英会話のテープといっても、カセットではなく、オープンリールである。幅6ミリ強(1/4インチ)の磁気テープが直径8センチほどのリールに巻き付けられている(動画1)。
これとは同型機ではないと思うが、おおむねこんな機械だったと思う。まだ真空管式である。
動画2のほうを見ると、どういう儀式を行って再生をするかが分かる。カセットテープのようにカチャ、再生ボタンではないのである。
さて、2人で聞き始めたがさっぱり分からない。巻き戻しては再生などを繰り返していたら、テープがちょっと絡んでしまった。それを直そうとしたら、どういうわけかもっと絡んでしまった。その状態で、「アレレ?」と巻き戻しなどしたから、もうテープが機械の外にまではみ出すほどのグチャグチャ。事態のさらなる悪化で焦ってしまったものの、「ともかくリールにゆっくりと手で巻き取ろう」と一旦気を落ち着ける。しかし、「先生が戻ってきたらどうしよう?」という焦りのほうが先行してしまう。もうワチャワチャ。そして最後の結論が「もう、諦めよう。モジャモジャになった部分を捨ててしまおう」であった。少なくとも当日はバレなかったが、あとで「何だこれ?」となったに違いない。
オープンリールではもうひとつ「やっちまった」が思い出される。時代は下って、私が大学院を出てNTT研究所に入ってすぐのころである。学生時代に無理して買ったオープンリールデッキが健在で、FM放送をよく録音して聞いていた。オープンリールのテープはそんなに安くはないので、ときどき中古のよく正体の分からないテープを買ったりしていた。ひどい中古テープは走らせているうちに磁性粉がバリッとテープ面から剥がれたりした。
ある日、メンデルスゾーンの八重奏曲をやるというので、あまり期待しないでそのあたりにあった中古テープをかけて録音を開始したら、驚くほどの名演。あちゃあ、こんな変な中古テープを使うんじゃなかったと後悔したものの、何としてもいい音で録音したい。私の持っていたオープンリールのデッキは高級品ではなかったので、テープがヘッドに正しい圧力で接するためのテンションのメカニズムがちゃんとしていない。なので、フェルトのパッドを押し当ててテープと磁気ヘッドの接触圧を強くしていた。使った安物中古テープはテープのプラスチック自体が固く(?)なっていたようで、ヘッドとの接触が不安定。録音ヘッドのすぐ隣にある再生ヘッドでいま録音した音を再生モニタすると、音の強弱がフラつく。これはいかんということで、フェルトのパッドに軽く指を押し当てて接触を良くした。
こんなことをしてはいけないことは明らかである。走行抵抗が指の押し加減に応じてフラフラ変わるので、テープの速度がフラフラし、結局音の高さがフラフラしてしまう。ところがよくした(?)もので、録音直後の再生モニタではその速度変動が連動しているおかげでほぼ相殺される。だから、もう一度聞き直すまでおかしな録音になっていることに気がつかなかったのである。ものすごい名演であっただけに、まさに「やっちまった」。
レコードが出ていないか探したが、国内盤はない。どうにもたまらなくなって、貧しいくせに英国から直輸入した。これまで2000枚超のLPレコードを買ったと思うが、直輸入で買ったのはこの1枚だけである。フラフラしない音であの名演が聞けたときの喜びは「やっちまった」の後悔感をはるかに超えた。
ちなみにこの名演は最近亡くなった名指揮者ネビル・マリナーが昔主宰していたイギリスの室内管弦楽団「Academy of St. Martin-in-the-Fields」(ASM)の1968年の録音である。その名演の価値が確立したのか、いまはちゃんとCDが出ている(写真1)。
以下のURLはLPレコードの情報である。
「Mendelssohn」(Boccherini/Academy Of St. Martin-in-the-Fields)
マリナーがバイオリンを弾いていない新しい録音もあるが、1968年の古い録音の演奏が圧倒的に(少なくとも私にとっては)素晴らしい。そういえば、上記のFM放送で初めてマリナーの名前を聞いたのであった。
もともと才能があるわけではないから、サッカーでは「やっちまった」が非常に多い。冒頭に紹介した佐々木正悟さんの記事によれば、たくさんあって日常化してしまうと「イヤな記憶」ではなく、「要するに自分は下手だ」という意味記憶への抽象化が行われ、個別のエピソードは記憶から薄れていく。逆にまぐれでうまくいったプレイは非常に少ないだけにエピソード記憶として残る。
例えば、私が29歳で社会人の部活としてサッカーを始めるきっかけになったNTT研究所内の部対抗サッカー大会で、何と40メートル弱のロングシュートを真正面から決めたあの情景はまぶたに焼き付いている。ライナーで飛んでバーのわずか下を通過した。キーパーは社内レクなのでみんなほぼ素人。だから取れないのである。
初めて出たNTTのサッカー全国大会(※1)。雨が降ってゴール前には水溜まりもある。どうも私は水溜まりに強いと思われていたらしく、フォワードとして途中交代出場。誰かが打ったシュートが、案の定ゴール前の水溜まりで止まってしまった。水溜まりをものともせず走り込んだ私が蹴ったら、水しぶきとともにゴールイン。
身長が高くないのに、ヘディングでのゴールのほうが多かったけれど、印象に残っているのは「ハラリング」。これも雨の中の公式戦、0-0の試合でチーム一番のスタミナとキック力を誇る元NTT関西のDF北田選手が30メートル以上後方の左サイドから斜めのクロスを上げてきた。斜め後ろのボールだからとても当てにくいのだが、右ポスト付近に走り込んで腹に当てて決勝ゴール。ダイビングヘッドするには足場が悪く、かつボールが近すぎたということなのでしたねぇ。
でも、こういうのは「やっちまった」ではない。実は一番記憶に残っている「やっちまった」は、市内リーグの公式戦で、我ながら見事なキックシュートを決めたあと、「ざまぁ見ろ」と言ってしまったこと。普段絶対にそんな物云いをしないのに、どういうわけか瞬間的にこの言葉が出てきてしまった。ヤクを飲んでいたわけでもないので、よほど気分が高揚していたとしか思えない。相手チームの選手たちから白い目で見られて、初めて我に返った。ゴールを決めてものすごい喜び表現をするプロ選手が多いが、私にもこの一度だけの経験があるので、実はその心情は理解できる。サッカーは点の入らないスポーツなので、それだけにゴールの喜びは大きいのである。
研究所で仕事を始めてからも「やっちまった」が非常に多いはずなのに、こちらはサッカーよりも思い出せない。忘却式健康法が完全実施されているらしい。いまでも、多くの人から「竹内さん、元気そうですね」と言われるのは、きっとそのせいだ。
ところが、つい最近、本格的な「やっちまった」をやってしまった。以前(第23回、第26回)紹介した「3人の賢者問題」がタネである。これのプログラムを書くのに七転八倒し、あまり記憶にないほどのデバグ時間を使ってしまったという話を前回紹介した。それでも、何とか書けたと思い、1月8日の情報処理学会プログラミングシンポジウムで、「3人の賢者の問題──愚者は賢者をシミュレートできるか?」と題して、問題とその難しさについて紹介をし、どうこの問題を解いたかの話をした。
しかし、私の解法もそれから得られる解答も間違っていたのである! 実は、「この問題でこんなに苦労するのはおかしい」という直感があり、シンポジウムの最後のスライドでも
と書いて、問題提起をしておいたのである。まさにその直感が当たってしまった。
東大の田中哲朗さんが、Q&Aで「私は詳しくはないのですが、SMT(Satisfiability Modulo Theories)ソルバでうまく解けるのではないでしょうか?」と質問したのに対し、「私はさらに詳しくないので、何とも言えませんが、きっと解けると思います」と返答した。
2泊3日のシンポジウムの最終日(1月10日)に、田中さんが「SMTソルバで解いてみたら違う結果が出てきました」と教えてくれた。私の見落としを、単純な論理関係の記述だけからSMTソルバによって機械的に見つけてくれたのである。しかも、私がデバグに要した膨大な時間に比して、何たる短時間!
おお、まさに老兵去るべし! でも、遺言状第18回の「問題児も悪くない」を地でいった、つまり「問題を解くのもいいが、問題を作る・生み出すのも楽しい、つまり、問題児も悪くない」のだと、明るく考えることにした。忘却式健康法ではないが、すり替え式健康法とでもいうのだろうか。(つづく)
※1:当時はNTT関東とか、NTT関西とか、いまで言ったらJ3ぐらいのレベルのチームもいた。
竹内先生への質問や相談を広く受け付けますので、編集部、または担当編集の風穴まで、お気軽にお寄せください。(編集部)
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