tech
ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔
第29回:え、私が防災?
元祖ハッカー、竹内郁雄先生による書き下ろし連載の第29回。今回のお題は「え、私が防災?」。
ハッカーは、今際の際(いまわのきわ)に何を思うのか──。ハッカーが、ハッカー人生を振り返って思うことは、これからハッカーに少しでも近づこうとする人にとって、貴重な「道しるべ」になるはずです(これまでの連載一覧)。
文:竹内 郁雄
カバー写真: Goto Aki
「研究者は自分の苦手なことを研究するものだ」という研究補償説がある。増井俊之さんは「苦手は研究の母」と書いていた。実は私は電通大時代の2002年ごろから2010年に東大を辞めるまで防災に関わるいくつかの研究プロジェクトに参画していた。私は防災が苦手というわけではないが、人に災いをもたらすようなことしかしてこなかったから、これはこれで、罪滅ぼしの意味での研究補償と言えるかもしれない。
思い起こすと1995年1月17日早朝(冬だから未明)に、あの阪神・淡路大震災が発生した。ちなみに「阪神・淡路大震災」は閣議決定された「震災名」であり、気象庁による地震の正式名称は「兵庫県南部地震」である。そういえば東日本大震災も、自然現象としての地震の名前は「東北地方太平洋沖地震」である。「震災」という名称は行政が被害対応を措置するために、その範囲を示すのに使われる名称のようである。「東日本大震災」という名称は被害対応の範囲が原発事故を含めて東日本全域に及んだからである。
最初から話が脱線するが、「東日本」の定義は何かを各種の統計情報をもとに複数の機械学習で調べ、機械学習法自体を評価したという発表が今年1月の情報処理学会プログラミングシンポジウムであった(※1)。例えば、長野県は東日本か、西日本か? この話の中で特異だったのは、ジュースも含め、ミカンを主に食べるのが西日本、グレープフルーツを主に食べるのが東日本という話だった。ただし、大きな例外が2つあり、兵庫県と福岡県はグレープフルーツのほうが多いとのことである(※2)。みんな、自分の出身地のことを思い出して、なるほどと頷いていた。
閑話休題。阪神・淡路大震災のとき、私はNTT研究所の所属だったが、当日の昼すぎに京都大学での講演を依頼されていた。朝8時すぎ、何も知らずに新幹線の東京駅の改札まで行ったら、手書きの掲示が1枚だけ。いわく「関西地方で大きな地震があり、現在新幹線は止まっています」。電光掲示板は消灯だったと思う。1995年というのはまだそういう時代だったのかとつくづく不思議に思うが、駅に行って情報がこれほど伝わってこないのも珍しい(※3)。しょうがないので、1時間ほどかけて武蔵野市の研究所に戻ってみたら、研究室の大画面テレビ(背面投影型)に神戸の悲惨な状況がリアルに実写されているではないか。なんと、地震発生から4時間以上何も知らなかったことになる。
さらに脱線するが、私が防災研究プロジェクトに参加して2年ほど経った2004年10月23日17時56分、茅場町のビル12階でその防災研究プロジェクトの会議をしていたとき、妙にゆーらゆーらした長い地震を感じた。会議には地震の専門家が多かったので「これは遠いところの非常に大きな地震だ、すぐテレビ!」となった。いまは多くの人が知っている長周期地震動である。これが新潟県中越地震だった。新潟県独自の命名だが、これには「新潟県中越大震災」という名前がついている。浦佐と長岡の間を時速200キロ超で走行していた上越新幹線「とき325号」が火花を散らしながら脱線停止したけれども、154名の乗客乗員に奇跡的に死傷者が出なかったことを記憶している方が多いと思う(※4)。
なんと、その日は高校同級生の毎年恒例のダラ旅行だった。すでに先発隊男女数名が中越の温泉に行っていて、私は会議の終了後すぐ新幹線で駆けつける手筈になっていた! 先発隊は帰るに帰れずひどい目にあった。私は雨男どころか、地震男なのかもしれない。
そういえば、2007年3月25日午前の能登半島地震のときも、私は大阪での仕事を頼まれていて、たまさか法事で逗留していた富山県の実家から日帰りで大阪に向かう途中、福井駅で長時間電車が止まってしまった。ちなみに東日本大震災のとき、私は自宅でエジプトでの講義資料の作成をしていた。強いけれどややゆっくりした揺れだった。門前の小僧ではないが、これはやはり200キロ以上離れたところで起こった大地震ということはすぐ分かった。あのとき生中継で見た津波の光景は忘れることができない。後に編集された映像ではカットされた場面が多いに違いない。大震災の被害者の方々の冥福を祈りたい。
さて、その防災研究プロジェクトは、元はと言えば「2050年に自律ロボットのサッカーチームが人間の世界チャンピオンチームに勝つ」という、ちょっと荒唐無稽な目標を掲げたロボカップに関係している。ロボカップは1997年から正式に大会が始まったが、1995年の阪神・淡路大震災の経験から、災害救助のロボットと、被害を減らすための情報システムの構築を目的としたロボカップレスキューも2001年に正式競技として始まった。
私はNTTから電通大に移ったとき、ロボカップをロボット実機でやるのは無理にしても、学生諸君のソフトウェアの能力をもってすればシミュレーション競技だったら結構行けると踏んだ。ロボカップシミュレーションリーグへの参加を提案したら、多くの学生が乗ってくれた。実際、かなり早い段階で我がYowAIチームは国内で頭角を現すことができた。
このとき2年前の大震災の経験から、ロボカップレスキューのアイデアが出、いつの間にかうちの研究室がそのシミュレーションシステム・カーネル(※5)を開発することになった。小藤哲彦君がほんとにあっという間に拡張性の高いシステム開発をしてくれた。しばらくの間、このシステムが世界大会の基礎となった。そのおまけと言っては何だが、やはりうちの学生だった森本武資君が世界大会でYabAIというレスキューチームで優勝するという成績を修めた。何だかインサイダー取引のように見えるかもしれないが、システム開発とは独立に行った、マルチエージェントシステムによる最適解探求のしっかりしたプログラミングの賜物である。
ロボカップレスキューシミュレーションでは、地震に襲われた市街のマップ上に、建物の倒壊状況、道路の閉塞状況、火災の発生・延焼状況、人の埋没状況のほか、災害対応の活動状況が多数のエージェントの活動として時間進行に応じて表示される。つまり、重機による道路閉塞の解除(道路啓開と呼ぶ)、埋没した人の掘り起こし救助、消防活動が画面上に動画で表示される(図1)。
もちろんエージェントは遠くが見えない。少し離れたエージェント同士は、組織が異なるとお互いに直接交信はできず、本部経由となり、そもそも災害時なので通信自体が制限される。だから、現場のエージェントの自主的判断が重要になる。同時多発大災害のときは、実際の運用もそうなるとのことである。
シミュレーションなので、あくまでも画面上で出来事が進行していくのだが、このシステムを住民たちが住む実際の町の地図の上で動かすと、見せられた住民たちの防災意識が一挙に高まるという効果がある。
どの自治体も災害に備えていろいろな防災訓練を行う。こういうシミュレーションはそのために確実に役立つ。また、実際に災害が起こった場合に、災害対策本部が災害の進行を予測し、それに対して先手を打つという、まさに実時間システム的な使い方も可能になるはずだ。ところで、「防災」という言葉は、災害が起こりにくいように予め準備しておくことを意味する。これに対して、起こってしまった災害の被害を最小にする努力のことを「減災」という。これも現実的にはとても重要で、実時間シミュレーションに出番がある。「減災」という言葉は日本語としてまだ定着していないが、少なくとも研究課題について話すときは「防災」と区別する必要がある。ちなみに「防災」はdisaster prevention、「減災」はdisaster mitigationである。
このような有用性が見込まれて、総合的な「減災シミュレータ」(研究室で開発したレスキューシミュレータの枠組みを発展させたもの)を開発するプロジェクトが、文部科学省の「大都市大震災軽減化特別プロジェクト」(略称、大大特)に組み込まれることになったのである。大大特は非常に大きな予算規模のプロジェクトで、5年間で総額130億円ほどだったのではないかと思う。減災シミュレータに関わる予算は年に2、3億ほどだったが、被害シミュレータも含めて、「震災総合シミュレーションシステム」(IDSS=Integrated Disaster Simulation System)と命名された。
と、口で言うのはやさしいが、ここまで来ると全国のたくさんの防災関係の組織や研究機関が持っていた、あるいは開発中の各種のシミュレータを統合するという、実はとんでもなく難しい問題なのであった。ロボカップレスキューシミュレーションのように、最初からそのつもりで作っていないからだ。役所や会社のあちこちでバラバラに開発されたソフトウェアを、はい、これからひとつのシステムとして統合します、よろしく、と言われたようなものだ。データ共有のための基本的な仕組みがそもそも存在しない、それ以前に、各組織の人たちの意識というかベクトルが異なる。
ちなみに、震災総合シミュレーションシステムの研究の本部が、川崎の元日本鋼管の体育館に置かれた。正式名称は「(独)防災科学技術研究所 地震防災フロンティア研究センター 川崎ラボラトリー」である。災害救助ロボット開発の拠点もここだったので、あの東洋の魔女(※6)たちが汗を流した練習場が災害救助ロボット実験場になった。床を痛めるといけないので、ちゃんと養生したのはもちろんである。その作業をしているところがデジカメ写真に残っていた(写真1)。
図2に、統合シミュレーションシステムの計画概念図を示す。
これだけ見ても大変そうということが理解していただけるかと思う。災害予測・対応シミュレータ群に「のりしろ処理」といった言葉が書いてあるが、これは大きな地図を地域分散してシミュレーションする分散システムを意図していたからである。実際、このために50台程度のPCクラスタを作ってシステム開発を進めた。
現場優先の方々は、現場で即役立つ路地裏直結的な活動を進めたいので、絵空事のようなシミュレーションシステムにはそもそもあまり興味がない。本当にひどい災害が起こったら、そもそもシミュレーションシステムそのものが(多分電源断や建物被害で)動かないし、情報の収集・広報もままならないというのが、現場優先の方々の考えだ。でもこれまで何回も起こった震災の経験と、モバイル技術の発達で、少しずつ状況は改善されてきている。少しずつかもしれないが……。
一方、技術者の挑戦課題である「絵空事のシミュレーション」のほうも、簡単に一筋縄ではまとまらない。そもそも、シミュレーションで何を明らかにしたいのか、やはり各人で微妙な温度差がある。例えば、シミュレーションの粒度ひとつとっても数々のトレードオフ問題に悩まされる。思いきりマクロにして、はい、この市町村はハザードマップ計算に基づいて、大体これくらいの被害(死傷者、建物損壊)が出る、そうした上で重点地区に災害対応部隊を派遣する、という考えもあれば、いや一人一人の行動を(一人一人の視野、情報環境に応じて)完全にシミュレーションして、その結果を任意の粒度で情報集約するべきだという考えもある。その一人一人にしても時間の解像度をどうするのか、10秒なのか、1分なのか、5分なのか……。ともかく細粒度にすればするほど計算資源がいくらあっても足りないし、並列・分散計算のオーバヘッドが出てくる。
ちょっと細かい話になるが、人は道路に沿って動くから、人の移動は道路ネットワークのモデル化をベースにすればいい、いや、広場のようなものがあるのでそこでは面としてのシミュレーションをしないといけない、などなど、議論が尽きないのである。だから、時間粒度や空間粒度の異なるシミュレータを接続・統合すべきということにもなる。実際、通常の地図に見える世界と、シミュレーション世界としてはほぼ別物の地下街、建物内部などは階段やドアなどで接合し、そこを通じて人や物が出入りする。
地震による個々の建物の倒壊は、実は地方自治体の不動産台帳を参照すれば、震度に応じて割と正確に計算できる。実時間シミュレーションではないが、細粒度ハザードマップとして予め作成できる。しかし、地震で簡単に倒れるブロック塀なのかそうでないのかまではなかなか分からない。要するにちゃんとやろうとすると個人情報(個人の資産情報)の領域に踏み込むことになる。高齢者の一人住まいの情報を共有して被害を減らそうという運動があるが、このあたりが公的にはぎりぎりのところか。
地震動による被害はほぼ一瞬だが、そのあとの津波、危険物質の拡散、火災発生・延焼となると、避難も含む災害対応活動とともに時系列が絡むシミュレーションになる。これもやさしくない。津波は波の高さというか、波の大きさが分かれば地形情報を使っていつごろどこまでが暴力的に浸水されるかを物理学的に計算できるだろう。最近よくテレビに出てこられる群馬大学の片田敏孝教授が開発した三重県某市の津波シミュレーションは、避難を呼びかけて巡回する市の広報車が津波にやられてしまうというインパクトのあるものだった。
火災発生・延焼シミュレーションも細かいことを言いだすときりがない。これも不動産台帳に基づいて木造と鉄筋コンクリートの区別や、建物間の距離を計算しなければ正確さは期待できない。消防大学校消防研究センターのシミュレーションは火災延焼グラフのようなものがあって、風向きがこちらなら、この建物の次はあの建物が燃えるというリンクが予め張られていて、なるほど、これなら計算の省力化ができると思ったものだ。専門性のある研究所なので信頼性は高い。こういうのもシステムに統合しないといけない。といっても、プログラミング言語はもちろん、地図のデータ構造も違うし、時間解像度も違う。シミュレーション統合というからには、マルチエージェント・シミュレーションとしての消火活動を、時間軸を合わせて反映させないといけない。片方のシミュレーションを妨害するもうひとつのシミュレーションが走る! 問題の難しさがお分かりいただけただろうか。
何しろ震災総合シミュレーションだけで数十名の人が関係したのだから、それらの人々の意識を統合するだけでも大変だった。とはいえ、統合まではいかないにしろ、いろいろなシミュレータが開発され、それぞれがインパクトのある知見をもたらしたし、次につながる成果にもなった。やってみるものだ。
上にも書いたが、成果の現場展開の可能性を確かめるために、防災・減災に関心のあるいくつかの市町村に出かけた。その地区の地図で火災延焼シミュレータを動かして、住民による初期消火がいかに重要かを示すと、地元の消防団の人たちは、分かっていることとはいえ、やはり納得の度合いが違うようだった(写真2)。
大大特は5年間の大きなプロジェクトだったが、災害大国日本にとって、減災が重要な課題であることは間違いなく、それとオーバーラップしつつ、別の名前のプロジェクトが、学生諸君の努力の甲斐もあり、3つも続いた。図2を見て想像できるような、あまりにも大変なシミュレーション統合よりも、自治体の防災担当者が真に欲しているようなシステムを御用聞きしながら開発を進めていくことになった。実際、後続プロジェクトでもいくつかの地方自治体に出かけてデモをしたが、こちらのほうが自治体職員や住民たちと密接にコンタクトすることができて反響が大きかった。ここで重要になったキーワードは「情報共有」である。これについてはまた別途書きたい(※7)。大大特の震災総合シミュレーションシステムの研究ではその後につながる多くの副産物的な成果は得られたものの、やはり最初からあまり高望みしてはいけないという教訓が得られたと思う。(つづく)
※1:日本の東西分割を通じた機械学習手法の評価、宮野祐輔、崔誠云、疋田敏朗、小林良輔、鈴木宏哉、山口利恵(東京大学)、第57回プログラミングシンポジウム、情報処理学会、2016年1月。
※2:私の記憶違いの可能性がある。見返したら論文にはその記述がなかった。口頭発表だけの情報だったようだ。
※3:1995年は携帯電話が普及期に入ったころであるが、多分私はその年の後半にPHSに加入したような記憶がある。
※4:気象庁の正規の震度計で震度7を記録した最初の例だそうである。阪神・淡路の震度7は推測値とのこと。
※5:災害進行のシミュレーションと多数の防災エージェントプログラム、つまりレスキューチームの動作をまとめて制御するプログラム。シミュレーションのOSのような働きをするのでカーネルと呼ぶ。現在はロボカップレスキューシミュレーション・インフラストラクチャと呼ばれている。
※6:1964年の東京オリンピックで金メダルを獲得した女子バレーの選手たちのこと。若い人はご存知ないでしょうね。
※7:遺言状で次回以降を予告するのは定義矛盾のような気がするのだが。
竹内先生への質問や相談を広く受け付けますので、編集部、または担当編集の風穴まで、お気軽にお寄せください。(編集部)
SNSシェア