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ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔
第33回:遅刻
元祖ハッカー、竹内郁雄先生による書き下ろし連載の第33回。今回のお題は「遅刻」。
ハッカーは、今際の際(いまわのきわ)に何を思うのか──。ハッカーが、ハッカー人生を振り返って思うことは、これからハッカーに少しでも近づこうとする人にとって、貴重な「道しるべ」になるはずです(これまでの連載一覧)。
文:竹内 郁雄
カバー写真: Goto Aki
私は子供のときから遅刻常習犯であった。第28回の「走馬燈」でも紹介したが、入学後わずか3日で転校した校区外の小学校は子供の足でも歩いて5分程度の距離にあった。それでもよく遅刻した。要するに朝なかなか起きられなかったのである。通常、老人になると朝早く目が覚めるようになると言われているが、私は今でも平気で午前10時ぐらいまで寝ていられる。寝るのが午前1時を過ぎることもよくあるのだが、それでもやっぱり寝過ぎだろう。寝ると成長ホルモンが出るらしいが、最近は腹回りの成長ホルモンの分泌が激しい。やはり、あまり寝過ぎないほうがいいかもしれない。
学校への遅刻はもちろんせいぜい数分程度だったが、これは中学でも高校でも続いた。高校のとき、可愛い女子の同級生(仮に芳子さんとしておこう)がいたが、彼女もときどき遅刻する子だった。クラシックバレーを習っていた彼女は、授業が始まっている教室の廊下を、悪びれることもなく、クルックルッと回りながらステップを踏んでくる。要するに目立つのである。その彼女についたニックネームがまさかの「女竹内」であった。
大学受験のとき、親が心配したのは試験に遅刻しないかであった。東京でときどき泊まらせていただいていた親戚の家から大学の試験会場まで50分ほどかかるというので、そのときだけは大学のすぐ傍のホテルに泊まることになった。1人でホテルに泊まるという経験は初めてだったので、さすがに寝坊はしなかった。
その効果であろうか、大学ではあまり遅刻した記憶がない。遅刻するかサボルかの選択になったのかもしれない。
問題は社会人になってからである。研究所という職場だったからということもあろうが、またも遅刻が常態化してしまった。といっても当初はせいぜい15分以内に留まっていた。
いつのころかNTTの研究所はフレックスタイムになったのであるが、多分私はそれ以前から自己フレックスタイムを実践していた。ま、それでも許される結果オーライ的な仕事はできていたから勝手にやれたのだろうと、勝手に推測している。そして、フレックスタイムになってからは、それを上回る自己フレックスタイムにシフトしていった。
1980年代のことだと思うが、一番忙しいころの典型的な私の1日はこうだった。朝起きて研究所に行く。ここまでは普通。そこでおもむろにトースターでパンを焼く。これが朝食。それを食べたら、グラウンドに出る。それが午前11時45分ごろ。だいぶタイムシフトしていることにお気づきだろう。そこでミニサッカーをしっかりやって、シャワーを浴び、気分爽快になったところで研究室に戻り、昼食代わりの「かき氷(蜜のたっぷりかかった氷あずき)」を作って食べる。そこから私の仕事が始まるのであった。どういうわけか、生産性がものすごく上がった(ような気がする)。
そのころの私の研究室の様子がポラロイド写真に残っている(写真1、写真2)。相当に怪しい雰囲気であることが容易に見てとれる。
ここまで来ると遅刻の概念をはるかに超えた「高み」に至る。激しい運動をして、かき氷。夕食は米を食べず、ビールを主食にする。これが腹回りの成長ホルモンを完璧に抑えていた。ああ、いい時代だった。
そんなわけでかなりの慢心と気の弛みがあったのだろう。大事な会議等への遅刻も常習犯であった。
少し遡るが、研究所の新人に対して先輩が講義をするという仕組みがあった。それの講師に当たっていたのだが、その日は完全に寝坊してしまった。理由は明確で、1978年のW杯アルゼンチン大会の決勝戦(検索したら6月25日とある)が日本時間では未明だった。しかも延長戦となり、寝る時間がどんどん削られていったのである。試合は「闘牛士」マリオ・ケンペスの劇的なゴールによってオランダを下したアルゼンチンの優勝となった。
この決勝戦はスポーツというより決闘というような性格だったらしい。このごろは試合開始のときは両チームの選手が子供の手を引いて、並んでピッチに登場する友好的な演出が当り前になっているが、当時はそうでなかった。アルゼンチンはオランダよりも5分遅れて登場したのである。まさに遅刻を利用して相手をイライラさせる宮本武蔵戦法である。
それはともかく、私は新人の誰かの電話で起こされたのであった。幸い、研究所までクルマで20分もかからないところに住んでいたので、多分1時間以内の遅刻で済んだ。
実はこの「クルマ」が曲者で、よせばいいのに都心で何かあるときはほぼいつでもクルマで出かけていた。おかげで都心の道は随分覚えたが、クルマ移動の常で、渋滞があると確実に遅刻してしまう。1980年代、仲間とともに開発したLispマシンを沖電気で市販製品に仕上げる作業をやっていただいていたが、芝浦にある沖電気にも武蔵野市からクルマで行っていた。だから、会議やレクチャに大幅に遅刻したことが何度もある。今更であるが、関係者に深くお詫びしたい。
そういえば、武蔵野市にあるNTTの研究所に当時の皇太子(現在の天皇)が訪問されたことがある。赤坂御所から、白バイで先導されたクルマで来られるのだが、往路29分、帰路28分というスケジュール表だった。この1分の差は何だろうという疑問もあったが、信号を制御することによって、ここまで速く行き来できるものかと感心したものである。
NTTの研究所もそのあとの職場となった電気通信大学も、私の自宅からはほぼ真南にあり、公共交通機関を使うとクルマの2〜3倍の時間がかかってしまう。そのためクルマでの移動が常態化してしまったのだが、東京大学(秋葉原)に移ってからは、クルマ移動をピタリと止めてしまった。折しも電車の乗り換え案内が極めて充実してきたことが、それを押してくれた。以前は「電車は渋滞しないが中が混む、クルマは渋滞するが中が空いている」とうそぶいていたが、電車も悪くない。Nintendo DSのすべてのドラクエは電車の往復の中でクリアできたし……。
こうして時代が下り、最近は遅刻をほとんどしなくなった。もっと若いときからそうしておけば良かったと今更ながら反省しているが、もう遅い。これも大局的な「遅刻」と言えよう。人生、結局、そういう大小さまざまの遅刻の連続なのだろう。ああ、今ごろ気づいても遅い。どうも、私は三途の河にも遅刻しそうな予感がしてきた。乗り遅れるとヤバイ!
思い出に残る遅刻というものもある。
1980年代のことだが、3カ月間ほど、横須賀にあるNTT研究所に技術移転のために短期移籍していたことがある。ここへもクルマで行き、寮に寄宿していた。週末は自宅に戻るわけである。そのころ、ある私的な研究会が午後6時ごろから東京農工大学であり、私が何か話すということになった。少し早めに横須賀の研究所を出て、東京農工大学に向かった。もう横浜横須賀道路もできていたから割りと早く行ける。当時はまだカーナビなどない(※1)ので、本になった紙地図が頼りである。
それでも遅刻しそうなので少し急いだのだが、やっぱり遅刻して着いてみると、どうも様子が変だ。何と、東京農工大学はキャンパスが2カ所(府中と東小金井)に分かれていて、私が行ったのは府中キャンパス。行くべきは東小金井キャンパスなのであった。当時はケータイというものがなく、もう会場に人は集まっているはずなのに連絡のしようもない。府中から慌てて東小金井に移動したがこれも結構時間がかかる。一応ダメ元で会場に向かう。
どうにか会場の教室に着いたが、もう午後7時半を回っていたと思う。しかし、何とみんなそこに座って楽しそうにしている。何と、落語に造詣の深い話し方をされる高橋延匡先生(故人、写真3)が場を持たせるお話をしてくださっていたのである。会場には和田英一先生、西村恕彦先生ほか、錚々たる先生方がいらっしゃったので、私は本当に冷汗をかいた。
しかし、そこから、中身は忘れたが、私はOHPシートと黒板を使って何か話をした。先生方を始め、集まったみなさんは大遅刻した私を咎めることもなく、楽しい様子で話を聞いていただいた。私が遅刻の常習犯だということがもう一般常識になっていたせいもあるかもしれない。
これは最近の話だが、沼津で友人たちと待ち合わせて食事をすることになった。私は御殿場インターから東名高速道路に乗り、沼津インターに向かった。インターを降り、こっちのほうだと道なりに進んだはずが、いつのまにか沼津インターから御殿場方面に向かう道にまた入り直してしまった。これも「逆走」の一種だが、今地図をじっと眺めてもどうしてこんなことになったのかまったく分からない。沼津港にカーナビは設定していたし、大体トポロジー的に無理としか見えないのだ。
幸い、こちらの遅刻のほうは軽微な影響で済んだ。ケータイで連絡が取れるというのは遅刻にも少しオブラートをかけるということだろうか。
私は招かれた結婚式にもよく遅刻した。さすがにクルマでは行かないが、乗り換え案内のない時代、適当な見積りで出かけて失敗することが多かったのである。確か3回連続で遅刻したという実績がある。
私はNTT研究所のサッカー部にいたので、若い部員の結婚式にもときどき招かれた。若いフォワードの選手(仮に平田君としておこう)の結婚式、例によって私は遅れてしまった。式場の観音開き扉の前に、タキシードに白手袋の式場係員が立っている。どうやら入口はこの扉だけのようだ。
「すみません、主賓席に座る竹内ですが、遅刻してしまいました。今入って大丈夫ですか?」
すると、係員、何やら慌てた様子で、「あ、あのう…」とおっしゃる。しかし、なぜか覚悟を決めた様子で「では、どうぞお入りください」と言い、観音開きの扉を2人がかりで開けてくれた。
突然、エレクトーンが「ジャーンジャンジャジャジャララン、ジャンジャララーン」(※2)と鳴り、会場からは大きな拍手。
何と、式場は新郎新婦の入場を息を飲んで待っていた瞬間だったのだ。そこに髪の毛モサモサ、ヒゲだらけの変なおっさんがスポットライトに照らされて入ってきた。呆気に取られたみなさん、拍手が凍り付く。しょうがないので、私は満面の笑みを浮かべて、楽しそうに両手を振って席に向かった。幸いサッカー部仲間が多かったので、パラパラと拍手は鳴り続いてくれた。
司会者がとっさの気転を利かせて何か言ってくれたおかげで会場は笑いで満ちてくれたが、いやぁ、満面の笑みを浮かべつつ、冷汗タラリ。
どっちが先だったか忘れたが、研究所の後輩の学士会館であった結婚式に25分遅刻してしまった。これだけ遅れると誰にも注目されない。でも祝辞の順番は狂ったかもしれない。
得られた教訓は、結婚式には中途半端に遅刻してはいけないということ。(つづく)
※1:あとで知ったのだが、私たちが開発したLispマシンが某自動車メーカーの初期のカーナビ開発に使われていたらしい。
※2:一応、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」の中の結婚行進曲のつもり。
カバー写真の撮影場所として「山中湖情報創造館」にご協力いただきました。ありがとうございました。
竹内先生への質問や相談を広く受け付けますので、編集部、または担当編集の風穴まで、お気軽にお寄せください。(編集部)
変更履歴:
2016年8月3日:写真3を「クレジット表記入り」のものに差し替えました(ご要望を受けて)。
この記事(引用させていただいた写真を除く)を、次のライセンスで提供します:CC BY-SA
これ以外のライセンスをご希望の場合は、お問い合わせください。
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