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「運動会は撮らねばならぬ」という幻想──コデラ総研 家庭部(71)
テクニカルライター/コラムニストの小寺信良さんによる「techな人が家事、子育てをすると」というテーマの連載(ほぼ隔週木曜日)の第71回(これまでの連載一覧)。今回のお題は「『運動会は撮らねばならぬ』という幻想」。
文・写真:小寺 信良
9月に入り、子供たちは早速運動会の練習に入る季節となった。昔は運動会と言えば10月10日の体育の日あたりに集中したものだが、最近は9月中に終わらせてしまう学校が多いようだ。また地域によっては、5月に運動会を済ませてしまうところもあり、秋は文化祭に回すのだと聞く。
昔のように、グラウンドにシートを広げて親子でお弁当を広げるといった風景も、ほとんどなくなってきた。共働きやシングル家庭のため、運動会に来られない保護者が増えたことへの配慮だという。子供用のお弁当は必要だが、応援する保護者としては軽装備で気軽に来られるようになったのは、歓迎すべきだろう。
運動会となれば、ビデオカメラで子供を撮るというのが、日本人には当たり前の行為として定着しているが、最近では次第に事情が変わってきているのを感じるようになった。ビデオカメラではなく、一眼レフで写真を撮るだけという人も増えたし、スマホで撮るだけというお母さん方も多い。
そもそも運動会をビデオで撮るという文化が生まれたのは、ビデオカメラメーカーのテレビコマーシャルが元になっている。光学何倍ズーム、手ぶれ補正、バリアングル液晶といったスペックは、人垣の後ろのほうからでも子供の姿を撮影するために作られた。こうしたプロモーションが盛んに行なわれてから、かれこれもう20年以上経つと思うが、当時からすでに、朝早く場所取りするのは面倒くさかったわけである。
当時の訴求としては、朝早くから場所取りしなくても、ビデオカメラで撮っておけば、あとでゆっくり子供の活躍が見られますよ、という話だったのだろう。だがいつの間にか、子供の運動会を撮影するのは、親の義務のようなことになっていった。手段が目的化してしまう典型的な例である。
こうしてパパは、ママに尻を叩かれながら、子供があっちこっち移動するたびにグラウンドの外側をわっせわっせと汗をかきながら走り回ることになってしまった。
子供のための記録とは
かつてビデオカメラは、入学卒業シーズンと運動会シーズンに新モデルが出るという、季節商品であった。筆者はAV機器のレビューの仕事も多いので、丁度そのシーズンには最新モデルを借りることができた。よって運動会は、カメラテストも兼ねてかなりたくさん撮影しているほうである。
撮ったビデオや写真は、バッファローの「おもいでばこ」に突っ込んで、子供がいつでも自分で見られるようにしている。赤ちゃんの頃から今までの写真を全部入れてあるのだが、様子を観察していると、運動会の動画や写真にはあまり興味を示さない。恐らく運動会のことは、自分が出場するのは一瞬のことで子供自身もたいして覚えていないし、思い出深いということもないのだろう。子供にしてみれば、ただの学校行事であり、親ほどは思い入れがないのかもしれない。
むしろ喜んで見ているのは、親子でどこかに遊びに行ったときに撮った写真だ。父1人娘1人なので、旅行に行くのも簡単だし、飲み会やパーティなど大人の席にも、よく連れて行った。学校行事よりも遊びのほうが楽しいのは、当たり前である。
学校というのは、上に上がるほど保護者がコミットする機会が少なくなるため、中学、高校と進学するにつれて、子供の写真を撮る機会も加速度的に少なくなっていく。小学校の運動会が一番記録しやすいのは確かだが、子供が一番成長する時期をいつも小さな液晶画面やファインダ越しでしか見たことがないというのは、親としては悲しい。それよりも自分の目で見て、精一杯声援を送るほうが、親子の思い出としては確かなものになるのではないだろうか。
子供は成長すれば、学校にはもう戻らない。だが家族や友人は、相手が生きている限り一生会い続ける。子供の頃に大半を過ごす学校での思い出よりも、それ以外の思い出を記録するほうが大事ではないだろうか。反抗期になれば子供は嫌がるかもしれないが、中高生のときの生活の写真もきちんと記録しておくと、後々子供にとってはいい思い出になるはずである。(了)
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