ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔
第41回:レビュー人生

元祖ハッカー、竹内郁雄先生による書き下ろし連載の第41回。今回のお題は「レビュー人生」。

ハッカーは、今際の際(いまわのきわ)に何を思うのか──。ハッカーが、ハッカー人生を振り返って思うことは、これからハッカーに少しでも近づこうとする人にとって、貴重な「道しるべ」になるはずです(これまでの連載一覧)。

文:竹内 郁雄
カバー写真: Goto Aki

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レビューは英語の原綴りだと、reviewである。つまり、re+view、再び見るという意味だ。だから辞書の他動詞としての最初に書かれているのは、再調査、再検討、見直すといった意味である。しかし、アカデミアの論文の世界では、査読とか批評といった意味になる。つまり、それまで一度も見たこともないものを読んで評価する作業を指す。

実技や面接以外の試験の成績判定も、答案やレポートなどの書かれたものをレビューしていると考えることができる。私はこれまでの生涯、何回レビューを受けてきたことになるのだろうか? 小中高12年間の期末試験が計36回、試験が6科目として216回という計算になる。大学では4年間に8回、試験はこれも平均で6科目とすれば、48回。大学院での試験やレポート、入試とかを入れて、ざっと300回というところだろうか。

自分の書いた論文を査読されるのは、期末試験よりは重いかもしれないが、同じ重みでカウントし、報告や書いた本の書評も入れたら、私が生涯受けたレビューは高々500回ぐらいだろうか。いま初めて計算して、うわ、たくさんあるなと思ってしまったが、私がほかの人の書いたものをレビューした回数のほうがはるかに多いことに気がついた。そういえば、NTT時代には人事のレビューも行った。大学教員になってからの採用人事も、書類を見て評価するのだから、ちゃんとしたレビューだ。

試験や学生の論文はもとより、いろいろな事業の申請書類のレビューをカウントしただけでも、私が受けたレビュー回数を1桁は上回る。中でも多いのは、2000年から始まった未踏事業(昔は未踏ソフトウェア創造事業、現在は未踏IT人材発掘・育成事業)では、精密なカウントはもう難しいが、トータルで2000件以上の応募書類は確実に読んだ。当然、1件1件が8ページ程度だから、試験の答案よりはるかに分量が多い。ほかにも、いわゆる科学研究費(科研費)、経済産業省、もとはといえば中小企業庁系のマッチングファンドの申請などをたくさん読まされた。複数人によるレビューがあるから、書類をレビューする回数の総和はレビューされる書類が書かれる回数の総和を上回ることは事実だが、桁違いということはない。つまり、レビューア(reviewer)集中化現象が起こっている。

こういうレビュー人生を送っていると、いろいろな文章を読むことになる。

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こんなくだらない遺言状を読んでくださる方がある程度いらっしゃるのだから、私の書く文章は一応読みやすいのかもしれない。自分で言うのもアホ自慢話みたいで憚られるが、30年以上前に書いた自分の文章を読んで、おや、今はもうこんな面白い文章書けないと思って読んでしまうことがある。

この遺言状は編集の風穴さんが、サイボウズの用字用語基準(編集注:「tech@サイボウズ式」の用字用語基準)に従って、いろいろ直してくださる。私が自分である程度確立していた基準と少し違うところがあるので、そこはいつも要修正になってしまうのだが、私のほうの基準も少しずつ折れて何となく変わってきたものがある。例えば、「何となく」は私の本来の基準は「なんとなく」であり、「例えば」も「たとえば」である。「行う」は少し前までは頑固なまでに「行なう」だった。理由は「行った」(did)と「行った」(went)が文脈依存でしか区別できないからである。例えば、次の文を見て、どちらなのか判断できるだろうか?

その質問を聞いて2人の兵士は怪訝な顔をした。
私は言った。
「部隊長が気にしているのは、君たちのどっちが行ったかなのだ。どうしてそんな顔するのかね?」
少し間をおいて、背の高いほうの兵士は意を決したように言った。
「私が行ったのであります」

これには今でも(これも、私は本来「いまでも」の主義)心が痛む。

そういえば、音引きの問題はいまだに日本の社会が分かれている。典型例は「コンピューター」と「コンピュータ」。ほとんどの新聞は今でも「コンピューター」という音引きをつける。私の感覚では、これ、かなり気持悪い。学会誌ではもう「コンピュータ」が標準になっている。よく使われるinterfaceのカタカナ言葉は3種類あるのかな? 「インターフェイス」、「インターフェース」、「インタフェース」。こうなると英語の発音に近いほうを採りたくなる。つまり「インタフェース」。私の使っているkanzenというかな漢字変換システムでは日本語モードで原綴りの「Interface」、見掛けは「いんてrふぁcえ」と打つと「インタフェース」と変換されるようになっている。

私がNTTの研究所にいたころ、先輩の音声研究者が、学会では「パターン」ではなく「パタン」という言葉に統一しようという運動をなさっていた。「どうなったのかな?」と思って、Google先生に聞くと、「パタン認識」では「パターン認識」しか引っかかってこない。日本語での音引きは、発音としては強調されることを表わしているのに、英語では強調されない「er」が一様に音引きになってしまっているところに問題があるのだろう。

もっとも、元慶大の有澤誠先生が頑なに「literacy」を「リタラスィ」と表記なさっていた。音の表記としては間違いなく本物に近いのだけれど、結構な違和感があった。要するに、こういった表記の問題は、音韻体系の違う言語の間では避けられない齟齬に由来するのである。

そういえば、山田方式という日本語入力法で有名な元東大の山田尚勇先生の書いたある文章では、英語由来のカタカナ言葉がすべて原綴りだった。例えば、「パターン」ではなく、「pattern」となる。私はこれいいなぁと思って真似たことがあった。こうするとカタカナ言葉の氾濫が自然に避けられる。「コンピュータ」ではなく「計算機」と書くようになるのだ。

外国人の名前をすべて原綴り(というか英語綴り、ロシア人を原綴りで書かれたら読めない(※1))にする方針にする学会誌がある。

文章の話をするつもりが、表記の話に「矮小化(?)」してしまった。閑話休題。

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そこかしこで、こんなようなことを書いたり、喋ったりしていたせいか、数年前、某出版社の方から「良い作文法」について連載してくれないかという依頼があった。どうも、あの名著、木下是雄「理科系の作文技術」(中公新書 624)と、別宮貞徳、岩淵悦太郎といった方々の誤訳、悪文を題材にした本のミックスのような、実地の悪文を題材に快刀乱麻を振るうという企画だった。

女性編集者2名に囲まれたランチで説得されたのだが、実地の悪文の収集が難しいことに気がついた。悪文はそれこそ無数にあるのだが、それを公開して快刀乱麻していいかどうかとなるとかなりの疑問符がつく。学生のレポートは、それを長文引用するだけで危ない。

公募への応募書類にも数多くの素材があるのだが、守秘義務のある書類なので、俎上に乗せる素材にするのは無理だ。いやあ、難しい。じゃあ、自分の書いた草稿をどう直したのかを素材にする? 1980年代半ば以前はずっと原稿用紙に手で原稿を書いていたので、修正が容易なワープロ(ってもう死語? 今は何と言うのだろう? タイプ入力?)で文章を書くときよりもじっと考えながら文章を作っていた。しかも、万年筆で書いていたので、実は結構たくさんの二重線消しや吹き出し挿入をしていた。つまり、修正履歴がちゃんと残る。しかし、そんな原稿用紙はもう手元に残っていなかった。

結局、この企画はランチをご馳走になっただけで終わってしまった。

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だから、ここから先は私の記憶に残っている悪文、悪句の断片を紹介するだけになる。まさに竜頭鵺尾だ。確かに、鵺の尻尾は蛇だ。すいません。

しかし、私がNTTの厚木研究所にいたころに見た、見事な悪文はさすがにPCの中に記録を残した。これは、一応研究所内に配布された公文書なので、ここに掲載しても問題なかろう。問題があったとしても時効が成立している(?)。

以下、平成3年2月1日 周2-11号 総括安全管理室から発せられた文書である。

NTT社員は、愛甲石田駅からバイクで出社途中、反対車線の車が右折するため一旦停止したので、バイクの横の車が道を譲るためライトをパッシングさせ合図し停止した。NTT社員はこれに気付かずそのまま走行したため相手車両は急ブレーキをかけたが間に合わず衝突したものである。

一読して、すぐ意味が分かったら素晴らしい。一般常識が豊かな人だと思う。つまり、一般常識があれば、多少文章が変でも、言葉の流れを押し切って意味を理解できる。これは日本語がまだ流暢でない外国人の話を我々が理解できるのと同じ原理である。

でも、これは日本人が書いた文章である。私はとある講義で、この文章を本来の意味が通るように書き直すことをレポート課題にした。読者もぜひ挑戦してほしい。

ところが、新しい技術提案をする応募書類だと、この一般常識がなかなか通用しない。つい先日もこの類の文章で、1つの文を3、4度読み返したのだが、やっぱり意味が分からなかったことがあった。こういう文があると全体の評価を低くせざるを得ない。クワバラクワバラ。

上で未踏事業の応募書類を2000通以上読んだと書いたのだが、特に印象に残っている句がある。未踏の応募書類では最後に「将来のソフトウェア技術について思うこと・期すこと」という自由作文を書いてもらっている。自由作文なので、申請者の文章力が比較的素直に現れる。同一人の書くプログラムと文章の品質には相関があると私は信じているので、ここはちゃんと読むようにしている。軽微なかな漢字変換ミスは、ま、少し不注意な人かなという判断になる。

さて、日本発のソフトウェアをもっと盛り上げていかなければならないという趣旨の作文を書いた学生がいた。つまり「メイド・イン・ジャパン」を盛り上げようということなのだが、「MAID IN JAPANを盛り上げよう」と書いてあった。目が点になってしまったが、このMAIDが2カ所に出てくる。単純な打ち誤りではなさそうだ。

いや、「MAID IN JAPAN」を盛り上げたいのは確かに分かるのだが……。

某科研費の申請書類もたくさん読んだが、大先生といえども、というか、大先生だからこその気の緩みが気になったものをいくつか見た。大先生だから、某科研費は当然ついてくるものということなのだろうか、文章の品質というより、中身の薄い申請書でも出してしまうということなのかもしれない。某科研費は自分も申請書を出すことがあるので、本来のピアレビュー、つまり分野の近い研究者同士での相互評価になる。しかし、レビューアの名前は隠されているので、たとえ知り合いの大先生でも遠慮することはない。

また、レビューが分担されることを意識してか、2人の連名で、名前の順序を変えて、中身を少し変えてあるものの、ほとんど同じものを見たことがある。残念、同じ査読書類グループに入れられてしまったということか。

論文でも、申請書類でもそうなのだが、文章はしっかり書いてあるのに、挿入された図版とかプログラムに間違いがあるものが意外と多い。最後に気が緩むのだろうか? これは他人事ではない。私にもその癖がある。文章の彫琢は真面目にやるのに、挿入する図やプログラムのチェックが手薄になるのだ。しかし、レビューするほうは、図やプログラムをじっと見ることが意外と多い。

未踏で、とても稀なことなのだが、2年連続でほとんど同じ申請書を見たことがある。1年経てば評価が上がるという判断をしたのだろうか。レビュー人生を送っている人間にそれは通用しない。

いろんなレビューをすると、まったく畑違いの書類を読まされることがある。例えば、土壌の改良法の提案とか。しかし、こういった畑違いが意外と面白い。「隣の芝は青い」ではないが、なるほどこういう世界があって、こういうやり方があるのだと感心するのである。でも、頭が痛くなるほうが多いかな?

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書評もレビューだ。ほめる書評が多いというか、書評によって広くその(良い)価値を知らしめるというのが暗に意図された目的ではないかと思うが、酷評の書評もたまにある。かなり昔の話だが、チューリング賞受賞者で、「構造化プログラミング」の提唱者、エドガー・ダイクストラ(Edsger W. Dijkstra)という偉い先生の書いた「A Discipline of Programming (Prentice-Hall, 1976)」という有名な本がある。邦訳もある。名前にijkと、まるで行列の添字のような文字の並びのある彼はオランダ人である。この本の書評を、これまたチューリング賞受賞者であるロバート・フロイド(Robert W. Floyd)がした。手元にコピーがないので、正確に再現できないが、話題になるほどのすごい酷評だった。最も有名なフレーズは「この本は英単語で書かれているが、文法はオランダ語である」。ほかにも「大したことないことを、大発明をしたように大げさに書いている」などといったフレーズもあったように覚えている。

私はよく頼まれて書評をした。私はあまり自分で進んで本を読む人間ではないので、書評を頼まれて初めて真面目に本を読むことが多く、実は結構いい勉強になった。たくさんの本を乱読するよりは、書評を書くつもりでじっくり1冊の本を読むほうがいいのではないかと今でも思う。

多くの場合、定評のある本の書評をすることが多かったが、出版社に持ち込まれた本を書評してほしいと頼まれることもあった。もう25年ほど前だが、「AIの待望の分かりやすい入門書」という帯のついた邦訳の書評をすることになった。これは入門書どころか、当時の錚々たる学者たちの持論が競わされている結構骨のあるオムニバスだった。ちゃんと読めば含蓄のある本ではあった。

その邦訳の書評の最後を引用しよう。別宮さんではないが、翻訳への文句爆発である。

(前略)本書の帯に謳ってある「待望のわかりやすい入門書」の見当違いぶりには感動すら覚える.

訳語だけにかぎっても,評者は,フォアレ(Hoare),論理的な音響システム(多分,logically sound system),メッセージ通過(message passing),演技者モデル(actor model),不履行(default)といった言葉が出てくるたびに,ニンマリするというよりはドキッとさせられた.ひょっとして,評者が詳しくない分野にも,この種の訳語が出てきているのではないかと心配になったからである.ときどき自分で翻訳もやっている評者にとっては,他山の石として大いに勉強になった(※2).

書評もあるが、翻訳もよく頼まれた。そのたびに翻訳する価値がある本なのかどうか一応確かめた。つまり、ある程度のレビューをした。ある専門書の一部の章を分担してくれないかと頼まれたとき、さっとその章を眺めたが私にはまったく意味不明だったのでお断りした。その本は上下巻で出版される予定だったが、結局上巻だけで終わってしまった。私のレビューもまんざらではなさそうだ。

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長いレビュー人生を送っていると、網膜レベルでもいろんなことに気づくようになる。その最たるものが、TeXで印刷された文章での、ASCIIの句読点と、つまりカンマとピリオドと、JISのカンマとピリオドが混じっているとすぐ気がつくという特技。昔のような視力はもうないが、なぜか気がつく。

そういえば、申請書類などで、よく「,.」と「、。」が混じっているものがある。ああ継ぎ足しカットアンドペーストしたなとすぐ分かってしまう。意地悪ジーサンそのものだなぁと我ながら思う。皆さんも気をつけてください。

この遺言状は、私の主義で句読点は「,.」で原稿を出している。風穴さんがやむなくそれを「、。」に修正してくださっている。「それくらい我慢したら?」と云われそうだが、横書きの場合、これだけは譲れない。こんな調子だから、水掛け論があちこちで起こるのは無理からない。

学生のレポートの校閲も半分は網膜レベルで済む。文章のおかしいところが、網膜に自然に浮かび上がってくるのである。ここで例を挙げられないのが辛い。

私が東大の秋葉原キャンパスにいた2009年のこと、いつものJR山手線のホームから下に降りようとしたとき、ふと網膜が何かを検知した。ん? 階段の目の前の壁に大きな電光看板がある。秋葉原ならではのメイド喫茶の広告だ。またもメイド・イン・ジャパン?

何が違和感を網膜にもたらしたか、すぐ気がついて、私は大学のオフィスに駆けつけ、カメラを掴んで、また秋葉原駅構内に戻った。こういうとき、定期券は便利だ。その写真を示す(写真1)。

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写真1:網膜に違和感をもたらした電光看板。

どれかの女の子が気になった? いや違います。答えを示そう。写真1の一部をトリミングして拡大したのが写真2である。気がつきましたか? 答えは脚註(※3)をご覧いただきたい。

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写真2:恐るべき迷キャッチコピー。

実はほかにもたくさん例があるのだが、どうもレビュー人生は少しだけ人生を楽しくしてくれるご利益がある。(つづく)


※1:ロシア語から英語綴りへの変換も当然ながら一意ではない。作曲家のプロコフィエフはProkofievとProkofieffの両方がある。両方で検索しないといけない。ロシア語は英語由来の外来語をロシア文字に変換してしまう。ここでは表記の揺れはあるのだろうか? そういえば、「ギョエテとは俺のことかい、とゲーテ言い」というのもありましたねぇ。
※2:念のために正しい日本語を書いておく。Hoareはトニー・ホアのホア、logically sound systemは論理的に健全な系、message passingはメッセージ送信(ほかの訳もある)、actor modelとdefaultはそのままカタカナにして、アクターモデルとデフォルト。
※3:NOTABLE CHARGEが大傑作。NO TABLE CHARGEのつもりだったのだろうが、空白1つの間違いで、NOTABLE CHARGE(注目すべき料金)になってしまった。外国人はきっとこの店には行かなかったに違いない。
そういえば、あのSmalltalk-80の分厚い本(確か、ブルーブックと呼ばれていた)の著者の1人、Adele Goldberg女史(その後、米国計算機学会ACMの会長にもなった)が、1980年代半ば、NTTの研究所を訪問したとき、ちょうどオブジェクト指向と論理型プログラミングを取り込んだLisp(TAO)を作っていた私の研究室にも来てくれた。TAOのオブジェクト指向は、先達であったZetaLisp(※4)のFlavorsを参考にしていた。オブジェクトの中のインスタンス変数値を外から見ることができたり、変更できたりするのを、Flavorsではgettable、settableと呼んでいた。
TAOもその言葉を継承していたのだが、Goldberg女史、これを見て「get tableの間違い?」と聞いてきた。なるほど、そんな英語は普通にはなかったのだ。こんな記憶が網膜に滲み出していたのかもしれない。
※4:これをベースにして、Common Lispが設計された。


竹内先生への質問や相談を広く受け付けますので、編集部、または担当編集の風穴まで、お気軽にお寄せください。(編集部)


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