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ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔
第25回:気配の科学?
元祖ハッカー、竹内郁雄先生による書き下ろし連載の第25回。今回のお題は「気配の科学?」。
ハッカーは、今際の際(いまわのきわ)に何を思うのか──。ハッカーが、ハッカー人生を振り返って思うことは、これからハッカーに少しでも近づこうとする人にとって、貴重な「道しるべ」になるはずです(これまでの連載一覧)。
文:竹内 郁雄
カバー写真: Goto Aki
私は下手だが、楽器を演奏する。フルートとチェロだ。フルートは高校2年か3年のとき、何の機会か忘れたが高校の吹奏楽部にあったフルートに触ってみて、「あ、やってみたい」と思ったのが始まりである。1学年150人の小さな高校なので、まともに吹奏楽部が成立するような規模ではなかった。楽器だけが揃っていたというところだろう。
どんなふうに練習したのかはさっぱり覚えていない。当然独学である。フルートは精密機器で、ちゃんと調整していないと弁がちゃんと連動して塞がらなかったりする。音が出にくいと思ったら精密ドライバでちょこっとした調整をする、場合によって力を入れてちょいと曲げを補正するというのも独学で覚えた。ともかく、まるで鳴らなかった楽器をそこそこ鳴るようにした。
何を演奏したかの記憶は1曲しかない。高校の講堂で生徒たちの前で演奏したケテルビーの「ペルシャの市場にて」である。一応吹奏楽だったと思うが、どんな編成で演奏したのかの記憶がまったくない。この中にはピッコロで吹く、速いパッセージの蛇使いの音楽がある(図1)。吹奏楽部なので、ピッコロも用意されていたが、誰も触ったことがなかったらしく、楽器の状態がとても良かった。私の美化された記憶だと思うが、蛇使いは結構うまく吹けた。ピッコロは楽器が小さいので、手の小さい私でもよく指が回るのである。そう、基本、楽器は小さいほど速いパッセージがやりやすい。
そんなわけで、大学に入ったとき、入学祝にと親にせがんでフルートを買ってもらった。そこからも独学というか独りよがり的に練習を続けた。運良く、大学のサークルの1年先輩の友人山崎久道さん(現在中央大学教授)がピアノを弾いてくれたので、ちゃんとできるできないと関係なく、いろんな曲を吹き散らすことになった。しかし、熱心に取り組んだのはバッハのロ短調ソナタで、1つの楽章が止まらずに最後まで行けたときは大興奮したものである。
思い返すと、音楽は小学校でも中学校でも一番嫌いで苦手な科目だった。それが中学3年のときに、悪友だった稲塚久馬君が、これまたどういう経緯だったか忘れたが、レコードコンサートをやるということになった。教室くらいの大きさの畳敷きの部屋に、いま思うと信じがたいちゃちなステレオ装置を設置して、リムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」(エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団――いまでもいい録音だし、名演だと思う)を鳴らした。当時の私にはこれでもぶったまげた音響であり音楽だった。
こうしてそのころからクラシック音楽を聞き始めた。高校1年のとき、朝比奈隆指揮のベートーベンの交響曲を当時の「ソノシート」という直径17cmぐらいのぺらぺらふにゃふにゃの片面レコード(10分程度が収録可能、これでもSPレコードよりは長い)を、楽章の途中でかけ替えながら聞いていた。遺言状第9回「アナログがデジタルを支えている」で紹介した私のオカルトオーディオの世界とは縁遠い、なんというか、音楽が聞こえていれば感動できるという時代であった。
大学院を出て、NTT研究所に入り、最初の年の冬のボーナスをはたいてチェロを買ってしまった。これがチェロの始まりである。自分では、フルートのような高音楽器とバランスが取れる(?)のはチェロだという変な理屈であった。世の中、そういう理屈を言う人は私だけではなさそうだ。
弦楽器は指導者について勉強すべきである。というのは分かっていたが、チェロも結局独学だった。だから、ちっともうまくならない。でも、下手になりようもないので、単調非減少に腕は上がろうとしている、と思う。
しかし、29歳のときにサッカーを本格的に始めることになり、楽器練習はほとんど沙汰止みになってしまった。サッカーもフルートもチェロも、ついでにやっぱり時間を取る音楽鑑賞(半ばオーディオ趣味)も入れるとなると、どうやっても時間の工面がつかない。
時代はいきなり飛んで、64歳になって東大を引退したとき、やっとこれで楽器練習ができると思い、フルートとチェロを立て続けに買い(写真1)、リハビリを始めた。時すでに遅しではあるが、それでも前よりはうまくなっているかもしれないと感じるときがある。
延々と私の下手糞な趣味について書いてきたが、要は、私が結構「音」にこだわりがあるということの前触れである。とはいえ、私の左右の耳は同じ性能ではない。右の耳と左の耳では聞こえ方が少し違う。単純に言えば、右の耳のほうが周波数特性が悪い。ところがあら不思議、両耳で聞くと、その差にまったく気がつかない。これがまさに「ゲシュタルト心理学」でいう、ゲシュタルトかもしれない。
ついでながら、私は学生のころ視力が2.0(以上?)あり、琴座の中の2重星(ε星)を十分肉眼で見ることができたくらいだが、私の目も左右で性能が違う。ほとんどの人は体験できないと思うが、左目が少々「弱視」気味なのである。つまりレンズ調整は右と同様の能力があるものの、網膜での見え方がどうも「弱い」。解像度はあるのに、見えにくいという不思議な感覚である。これも両目を使うと気がつくことはない。
現在、メディア技術は驚くほど進んでいて、4Kのテレビが市場で売れ始めている。放送がないのに先走っているなぁと思うが、老眼兼近眼兼乱視になった私にも見た瞬間に通常のハイビジョンの映像と違うことは分かる。
私はこの4K画像を実は1997年ごろ、直前まで在籍していたNTTの研究所で見ている。実験的に作られた高臨場感TV会議システムである。もちろん当時はそんな高解像度のディスプレイはないから、多数のリアプロジェクション画面をものすごく苦労して境界が見えないくらいシームレスにつなげたものである。これがちょっと暗くした部屋の壁面になっており、その壁面にくっつけたテーブルに数名の人が座れる。画面の向こうには違う部屋が映っていて、そこにも同じテーブルがある。つまり、こちら側のテーブルと向こう側のテーブルが全体として1つのテーブルとして見えるような仕掛けなのだ。こうして、あたかも同じ部屋のテーブルを囲んで会議をしているように見せかける(※1)。これが「高臨場感」の意味だ。
こちら側に私と並んで座っていたのは、当時NTTが主宰していたメディア研究会の仲間である哲学の黒崎政男さん、精神病理学の香山リカさん、デザイン美学の柏木博さんといった錚々たるメンバーである。向こう側には、このシステムを開発した技術者たちが座っていた。
この実験におつきあいいただいた人たちの一致した感想は、映像は当時の技術を圧倒的に超えていたものの、本当のリアリティにはまだ届いていなかったということである。人間の感覚は本当にすごい。実験なので、同じ研究所内から映像を送ってきていた技術者チームがいたのだが、彼らは我々と初対面であった。黒崎さんの希望で、TV会議終了後、実物(?)と対面することになった。そのとき黒崎さんがいきなりこう言った。「あ、全然本物のほうがいい!」 そう言われた技術者は喜ぶべきか否か、迷ったに違いない。
私には「高臨場感」のために、「音」にまだまだ解決すべき問題、あるいはそもそも解決できない問題があるのではないかということが気になった。現象としては、想定されている部屋の広さにしては声に不自然な残響がつき、相手側の声が、見えている画像とのバランス、あるいは隣に座っている実物の声とのバランスからいうと小さい。
誰が喋っているかがすぐ分かる見事な音像定位を実現するために多数のマイクを使っているが、徹底したハウリング対策(エコー対策)が施されているものの、逆にそれゆえの不自然感が出てしまうのである。
向こう側と対話するためには、当然マイクとスピーカーが必要となる。エコーは、こちら側のマイクに拾われた声が、向こう側のスピーカーから出て、向こう側のマイクに拾われて、こちら側のスピーカーに伝わるから起こる(これが何重にも繰り返されることもある)。
なぜ、映像のほうではこの問題が起こらないのか? 映像にもカメラとディスプレイが必要だ。しかし、カメラはディスプレイを撮影しない。だから、信号経路にループが発生しないのである。ちなみにビデオカメラでそれのモニター画面を映しているディスプレイを撮影すると大概は変なことが起こる。
これは聴覚の受動性と視覚の能動性という根源的な差に関係している。動物にとって聴覚は餌食になる危険を察知するために場の状況をバックグラウンドジョブとして把握し続ける受動器官だ。だから、後ろの状況も分かるように全方位的になっている。それに対して視覚は餌食を取るために焦点を絞るための能動器官だ。全方位的なものを通信回線を通じて共有しようとするから、エコーは避けられない宿命となる。Skypeが昔よりずっと良くなっていることから実感されるように、エコーキャンセラの技術はどんどん進歩しているが、どこかに不自然感がつきまとう。みんなが一斉に喋り始めるとそれはすぐ分かる。私はやってみたことがないが、Skypeで2重唱の練習はできるのだろうか?
高臨場感TV会議が「場の共有」という意味だったら、まだまだ力不足だ。NTT研究所の後輩たちが「同室感コミュニケーション」という研究プロジェクトをやっていたが、これは同室感という感覚にもっと踏み込んで、こちら側も向こう側もあたかも同一空間内にるように空間知覚させるシステムであると同時に、時間も超えて同室感を与えることを目指していた。
しかし、本当の同室感というのは、空間位置の共有知覚だけではなく、要するに部屋の(文字どおりの)空気を共有しないとやっぱり達成されない。それにはやはり空気を伝送媒体としている音が主要パートを占める。空気の共有という意味では、匂い、気温、湿度も重要である。ついでながら、実は光も重要だ。同じ部屋にいれば、明るさは共有できているし、窓から太陽光が入れば、その赤外線により部屋はポカポカする。赤外線共有ともなれば装置は随分大がかりなものになろう。
こういう通信テクノロジの話を持ち出すまでもなく、音は同じ部屋にいる人たちの同室感というか、一体感、親近感を形成するのに本質的な作用をもたらしている。
1980年代、私と仲間たちが手作りした計算機システムを、研究所の実用化部門でさらに発展させることになった。一種の技術移転を行うわけだが、場所が70キロ以上離れている。まだ電子メールはよちよち歩きし始めたばかりのころで、電話とファックスが主たる通信の手段だった。残念ながら、これでは技術移転はうまくいかない。結局、我々が相手方に乗り込んで、同じ部屋で一緒に仕事をすることになった。場を共有することが、技術移転を円滑にするのに最も効果的だったのである。
このような場の共有の直接的効果は、顔を合わせていることよりも、共通の音場に居合わせていることから来たと思う。技術的に意味のある発声のみならず、鼻息、苦吟のうなり、衣ずれの音、キーボードのカチャカチャ音、椅子のきしみ、……。タコ部屋みたいな状況の中で共有された音場がまさしく臨場感であり、技術移転の場だった。
サッカーパブでは、そこに集まった小さな群衆がお互いに(視覚器官を使って)見合うから興奮するのではない。自分たちが作った音響空間の中で、発声と聴覚器官を使って自己増幅的に興奮していく。これがサッカーパブの仕掛けであり、ディスコの仕掛けだろう。つまり、音という共通場の受動的状況認識を使って集団を興奮のルツボに巻き込む。
同室感には「気配」も重要である。気配は皮膚感覚と聴覚の境界領域にあると思う。オーディオマニアの発想では、気配のかなりの部分は恐らく30ヘルツ以下の超低音に起因する。良い録音を良いステレオ装置にかけると、指揮者がタクトを振ってオーケストラが音を出す前の一瞬の気配が物理的に「聞こえる」。
炎が発する超低周波の空気振動を検知することにより、従来の温度検知より圧倒的に速く火炎を検知できる火炎検知装置があるらしい。これも音だ。
後ろからじっと見つめてられていること、すなわち視線を感ずることができると思うことがよくあるが、これは何なのだろうか。凝視の姿勢により空気が動かなくなっていることを逆に検知する、いわば音が止まっているという負の現象の検知かもしれない。だとすると人間の知覚は恐ろしいものだ。
もっとも、人の気配は赤外線で感知できるという説もある。赤外線は目でなくても感知できる光だから、受動感知されるのだ。世の中には「暑い」というか「暑苦しい」人が確かにいるが常人よりも強い赤外線が出ているのかな?
気配の科学はもっと探求されてもいい。と、思って調べたら、東京大学生産技術研究所機械・生体系部門の滝口清昭特任准教授によると、私たちの体の周りには「準静電界」と呼ばれる「電気の膜」があり、それが気配の正体なのではないかという。おお、そうか。オカルトオーディオを否定しない私には十分信じられる。
で、最初の話に戻る。合奏は同室感があってこそ成立する。
10年ほど前だっただろうか、マイクロソフトのImagine Cupという学生のプログラミングコンテストの国際大会に審査委員として参加したことがある。といっても会場がパシフィコ横浜なので気が楽だった。Imagine Cupは4名の学生がチームを組み、数カ月、独自の課題について開発を進めて、最後は成果のみならず、プレゼンの上手さも評価されるという総合的なプログラミングコンテストである。
横浜の大会ではロシアのチームが、遠距離に分散した音楽プレイヤが合奏するというシステムの開発でかなりいい成績を修めた。ここでの最大の問題は同期の邪魔となる、ネットワークを経由したタイムラグである。100ミリ秒も遅延するとちゃんとした合奏はできない。それをごまかす方法を生み出すのが技術的挑戦だった。
長野オリンピックで、小澤征爾の指揮のもと、地球の裏側を含む世界中で同じ曲(ベートーベン第九の喜びの歌)を歌うというイベントがあった。地域に応じて予め仕組んだ遅延制御をして、日本の映像では(一見リアルタイムに)同時に合唱しているように視聴できるようにしたのである。ともかく世界中で同期を取るのは大変だ。競馬の実況中継のラジオを数分遅延させて部屋に流して、不正な賭け競馬の胴元をやったという事件が昔あったが、似ているといえば似ている。
さて、2015年11月半ば、つまり、つい半月前、10名あまりのお客さんの前で、元プロのオーボエ奏者の某○女とクヴァンツのトリオソナタを合奏する機会があった。某○女(※2)とは長い飲み仲間だが、合奏をしたのは初めててあった。当然練習も本番も「同室」である。私は人前での演奏は、そうは多くはないものの、何度かやっている。
ところが、ところが、某○女との合奏は練習の段階から本当にメロメロになってしまった。彼女の気配だか、準静電界だかを感じすぎたのだろうか? 普段間違えるはずのないようなところでまで間違える。フルートの音が本来の自分の音にならない。これには参った。なので、本番もほうほうの体で、最後の楽章までやる気がせず、2楽章で打ち切った。
そのあとの別の曲はチェロでの参加だったが、フルートでの失態が面目なくて、やけ酒的ビールを飲みながら弾いた。しかし、これは大過なし。
これはどうしたことか。結局、同室感とは何ぞやなどと頭でっかちなことを考えているからアカンのだと、猛反省をすることにした。いまごろ反省しても遅いが。(つづく)
※1:そのときは3地点をつなぐ会議で、画面の向こうには2カ所が映っていて、それが1個の円卓を囲んでいたという仕掛けになっていた。
※2:○にどんな言葉が当てはまるかは、読者の創造あるいは想像にお任せする。
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