理想の体重に近づくための無理なダイエット、売り上げノルマの達成に向けた過度な労働、適齢期までの結婚を望む大きなプレッシャー。
目標となる「数字」は、モチベーションの源泉となる一方、日々の言動を強制するものでもあります。もしも数字を手放せたら、わたしたちはもっと主体的に生きられるかもしれません。
そんな背景から今回、『ダイエット幻想 ──やせること、愛されること』において、「数字」が持つ影響力について言及している人類学者の磯野真穂さんにインタビューを実施。
前編では、数字が持つ影響力や自分の価値基準をつくる方法などを伺ってきました。
後編では、磯野さんが数字を手放した経験や数字に追われる社会でのサバイバル術、「やらない」などの話題を通して、どうすれば数字とうまく付き合っていけるかを探っていきます。
環境によって変わる評価に、振り回されるのは無駄
深水 麻初
前回は体重や結婚年齢など、わたしがとらわれている「数字」から話が始まりましたよね。今回は逆に、磯野さんがとらわれていた数字を聞いてみたいです!
磯野 真穂
わたしも20代の頃までは、体重にはとらわれていましたね。親族や周りの大人から「ぽっちゃりしているね」と言われて育ってきたので。
でもアメリカに留学したら、一転して「スリムだね」って言われるようになったんですよ。そこで「環境によって、評価が変わるものに振り回されるなんて、無駄なのでは?」と気づきました。
もちろん、いまでも「ここまでいったらまずい」という体重はありますが、人生が左右されることはなくなりましたね。
磯野真穂(いその・まほ)。在野の人類学者。1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒。オレゴン州立大学応用人類学修士課程修了後、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年4月より独立。人がわからない未来を前にどう生きるのか、に関心を持ってる。人類学の魅力を学問の外に広げたいと考えている。著書に『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)や『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書)など。
深水 麻初
「常識」や「理想」とされる数字は、周りの環境によって大きく変わるものなんですね。
磯野 真穂
はい。ほかには最近だと、学問の世界の中で評価されようとすることも、かなり手放せるようになりました。
深水 麻初
学問の世界の中での評価……?
磯野 真穂
たとえば、一般に大学教員公募では、英語論文は●点、書籍は■点というように点数が決まっていて、加算された点数が高いほうが評価されやすいんです。
また、最近注目されているようなキーワードを意識して、論文数を稼いでおくと、就職しやすいといったアドバイスをもらったこともあります。
それに加えて、人間関係、つまりコネクションが重要になることも珍しくありません。
深水 麻初
なるほど、大学特有の評価基準があるわけですね。
磯野 真穂
はい。でもわたしの場合、そういう尺度の中で自分の業績を積み重ねてゆくのが、どうにもうまくできなかったんです。
その尺度の中で評価される人間にもなれないだろうと思い、大学で常勤職を得るのをあきらめました。
深水 麻初
学者はそういう外部の評価から距離を置き、フラットな視点で研究に集中しているのだと思っていました……。
磯野 真穂
本来はそうですし、その中できちんと活動されている方も多いんですが、わたしはきちんとできない人だったんですよね。
だからこそ、いまは誰かがつくった数字の尺度に、自ら絡め取られに行かないよう注意しています。
深水 麻初
というと?
磯野 真穂
たとえば、本を出版した際には、Amazonの評価や売り上げ部数がどうしても気になってしまいます。
自分の手を離れたらコントロールしようがないのに、一生懸命書いたものだから、どうにかしたいと考えてしまうんです。
そうした数字に表れる部分に引っ張られないよう、「どれだけわたしが伝えたいことが、伝えたかった人たちに届いているか」を見るようにしていますね。
深水 麻初
数字以外の部分にも目を向ける、ということでしょうか?
磯野 真穂
そうです。それこそ、『ダイエット幻想』はバカ売れした本ではないですが、今回のインタビューのようにお声がけいただくことも少なくありません。
長期的に見て、届けたい人たちにしっかり届けることのほうが、大事だと思うんです。そうした本質を見失わないようにしていかないと、他者の価値観に迎合して生きることになる。
「他者からの声に飲み込まれず、でも無視するわけでもなく、それとともに生きる道を探そう」といった、自分が書いたことを裏切りたくないので、本当に気をつけていますね。
自分のペースに気づくのに10年。ある日ふと、履歴書を書くのをやめた
深水 麻初
そんなふうに、社会生活を送りながら自分のペースに保つのは、難しいなと思っちゃいます……。
磯野 真穂
わたしはフリーランスなのでまだマシだと思うのですが、大半の会社員は配慮すべき人の数が多いので、より他人軸に引っ張られやすいですよね。
中には他人軸で進む社会で生きられるよう、あえて自分の感覚のスイッチを切って、自分の心を守っている人もいるように感じます。
深水 麻初
うわぁ、それはなんとなくわかります……。
磯野さんは、いつ自分の心地よいペースに気づけたんでしょうか?
磯野 真穂
いやぁ……ほんと最近ですね。40歳過ぎてからです。自分が大学に合わないと気づくのだって、10年かかりましたし。
深水 麻初
10年! 何かきっかけがあったんですか?
磯野 真穂
ある日ふと、大学の常勤教員公募の履歴書を書くのをやめようと思ったんですよ。「この大量の書類を書くために自分の人生を使いたくない」と強く感じて。
あとは、大学の中でポジションを得ている人のアドバイスが、わたしには全然ピンとこなかったんです。
大学で生きていくためには、そのアドバイスに「うん」と言わないといけないのですが、自分にはそれができないな、と。
深水 麻初
なるほど……。
磯野 真穂
一応わたしなりには、大学が求める尺度の中で評価される人間になろうと頑張ってみたんです。
でも、どうやらわたしには難しいらしい、ということに10年経ってようやく気づいた。なので「大学」という環境の方を手放すことにしました。
深水 麻初
「辞めよう」という感情が湧いたのは一瞬かもしれませんが、その裏には10年の積み重ねがあったんですね。
磯野 真穂
それこそ、深水さんと同じ20代の頃は本当にカオスでしたね。とにかく右往左往、無駄な動きばかり(笑)。
ただ、唯一わたしができていたのは「やってみる」ことですね。「人類学を学んでみる」、「社会人と言われないことが嫌だから一度社会人になってみる」、「博士に戻ってみる」とか。
深水 麻初
幅広くチャレンジしていたんですね!
磯野 真穂
周りから見ると「何がしたいの?」という感じだったと思いますが、その積み重ねの中で「自分はこういうところなら生きていけるのかな」と気づけました。
深水 麻初
前編で話していた、「やってみる」の積み重ねによって、自分の価値基準をつくっていったわけですね。
「やらない」は悪いことじゃない。ただ、正当化して他人に押し付けてはいけない
深水 麻初
磯野さんは「やってみる」を実践してきた人だと思うんですけど、一方で「やってみる」が苦手な人は、どうすれば一歩を踏み出せるんでしょうか?
磯野 真穂
うーん……。見方を変えれば、そういう人たちは「やらない」をやってみているのかもしれないですね。
深水 麻初
なんと……!
磯野 真穂
それこそ、みんなが「やってみる族」だと社会が混乱するので、「やらない族」は必要だと思います。
わたしは「やってみる族」ですが、周りの人は振り回されて大変だと思うので(苦笑)。
深水 麻初
なるほど(笑)。そうして多様な人がいるからこそ、社会が安定しながら発展してきたのかもしれませんね。
磯野 真穂
そうですね。だから、「やらない」は悪いことではないんです。ただ、言葉と行動が乖離しだすと、おかしなことになる気はしていて。
よくあるのが、単に勇気が出なかったり、周りに合わせたりしているから「やらない」のに、それを「〜のことを思って」といった形で「やらない」を正当化すること。
「やらない」選択をあたかも道徳的に正しいように見せかけ、「やってみる」ことをよくないことかのように言うのはやめたほうがいいと思います。
深水 麻初
もしかしたら、自分が選ばなかった選択をしている人に、嫉妬している面もあるかもしれませんね。
磯野 真穂
だから、やらないのはいいのですが、自分を正当化するために、やっている人を批判してはいけないと思うんです。
深水 麻初
あとは、やらない理由の1つに、長年積み重ねてきた地位や立場を守らないといけないから、というのもありそうですよね。
そう考えると、「やってみる」は、年齢が上がるとともにハードルも高くなりそうです。
磯野 真穂
そうですね。わたしが大学から出ようと決意したことの1つに、社会的地位が高くなればなるほど、その地位を手放しづらくなるように見えたことがあります。
地位には面倒くさいこと、大変なこともたくさんありますが、同時においしいこともいろいろある。それを味わってしまうと、地位がなくなるのが怖くなるのかな、と周りを見ていて感じることがありました。まあ、勘違いかもしれないんですけど。
深水 麻初
なるほど。
磯野 真穂
だからこそ、もしもいま「やってみる」という選択に迷っているのであれば、早いうちに「やってみる」を小さい形でもいいから、経験しておくことをおすすめしたいです。
「効率的に多く」が求められる社会のペースに合わせる必要はない
深水 麻初
周囲の声や社会的な地位に振り回されないための対処法は、人それぞれだと思うのですが、磯野さんは何か工夫していることはありますか?
磯野 真穂
わたしは小さい人間なのですぐに振り回されるのですが、対処法としては、定期的に身体を動かすようにしています。走ったり、長めに散歩したり。
それが他者からの評価ではなく、自分がその場の環境とどう関わっているのかを知るのに一番手っ取り早い方法だと思うんです。
深水 麻初
体を動かすことで、自分の感覚を取り戻すみたいな感じでしょうか?
磯野 真穂
うーん、そこまで崇高なものじゃないですけどね(笑)。
他人の評価に縛られるのって、心を遠くに向けている状態だと思うんです。でも身体を動かすと、自ずと自分の心を近くに向けることになる。
「どう走ると気持ちいいか」に視線を移すだけで、他人の評価に引っ張られにくくなるのかな、と。
深水 麻初
なるほど……!
磯野 真穂
あと心がざわざわするときは、わざと過剰にゆっくり動くようにします。コーヒーをものすごくゆっくり入れたり、白菜をゆっくり切ってみたり。
いまの社会って「効率的に多く」が求められますよね。わたしには、その速すぎるペースが合わないんですよ。
あえてゆっくり動くことで、社会の速いペースとのバランスを取るのが、わたしなりのサバイバル術ですね。
深水 麻初
すごくわかります……! わたしもお湯沸かしている間に、ついつい「この時間で何かをしよう」と効率的に動きたくなるんです。
でもある時、あえてなにもせず、じっと炎を見つめてみたら、「あれ? なにをそんなに焦っていたんだろう」とふと我に返って(笑)。
磯野 真穂
そうそう(笑)。メールも5時間経っただけで「遅くなって申し訳ございません」という返信がきたりしますが、5時間で返せば相当に早いのではないかと。
場合によりますが、本来メールなんて、自分の手が空いているときに返せばいいものなので。
手紙の時代なら、返事が2週間後というのはザラだったと思いますし。
充実した「生成される時間」を持てているのか、立ち止まって確認を
深水 麻初
そう考えると、いまの社会はとんでもなく速いペースで物事が動いているんですね。
磯野 真穂
そうですね。時間はお金とリンクしていて、「時間を節約する」「時間を稼ぐ」というように、時間の比喩がお金になっていますよね。
つまり、「お金」を扱うように「時間」を扱っているわけです。だから、わたしたちは時間をうまく使ったり、貯めたり、稼いだりすることに価値があるように感じる。
これは社会に共有されているお金の価値観を知らず知らずのうちに内面化している、とも言えます。
深水 麻初
たしかに……。本来、自分がどんな時間を過ごすかは自由ですもんね。
磯野 真穂
その通りです。一方で、時間は自分の外側を一定の速度で流れるものだけでなく、自ら「生成する」こともできると思っていて。
深水 麻初
時間を「生成する」……?
磯野 真穂
はい。わたしは、哲学者の宮野真生子さんとの共著『急に具合が悪くなる』で、20通の書簡のやり取りをしました。そのときは、3日が3か月くらいに感じられたんです。
実際に過ぎた時間よりも、自分が体感した時間のほうが長い。これって、時間を「生み出せている」状態だと思うんですよね。
深水 麻初
その感覚、なんとなくわかります!
わたしも新卒で入社したとき、まだ1週間しか研修を受けていないのに、体感では1か月くらい経ったように感じていました!
磯野 真穂
当時の深水さんは、「やってみる」を通して、新しい世界との関わりを見出していたんだと思います。
その時間は大変なことも多かったと思いますが、振り返ると充実していたときもあったのではないでしょうか。
深水 麻初
そうですね。新しい環境に飛び込んで、とりあえず「やってみる」を繰り返している時間は、とても楽しかったです。
磯野 真穂
もちろん社会生活を送るうえでは、時計をもとに合理的に動くことは欠かせません。ただ、そうした「生成される時間」を自分は持っているのか、ふと立ち止まって確認することも大切だと思います。
企画:深水麻初(サイボウズ)執筆:中森りほ 撮影:栃久保誠 編集:野阪拓海(ノオト)
変更履歴:一部抜けている箇所があったため追記いたしました。(2022/3/24 12:10)
変更前:でもアメリカに留学したら、一転して言われるようになったんですよ。
変更後:でもアメリカに留学したら、一転して「スリムだね」って言われるようになったんですよ。
サイボウズ式特集「多様性、なんで避けてしまうんだろう?」
ここ最近、よく耳にする「多様性」という言葉。むずかしそう、間違った言動をしそうで怖い——。そんな想いを抱えている方もいるのではないでしょうか。サイボウズでも「多様性」を大事にしていますが、わからないこともたくさんあります。この特集では、みなさんといっしょに多様性の「むずかしさ」をほぐし、生きやすく、働きやすくなるヒントを見つけられたらいいなと思うのです。