仕事への愛としんどい気持ちは無関係。大人の戦い方には「逃げ」も必要
好きな仕事をしているんだから、しんどくても我慢しなくちゃ──。
気がつけば私たちは、さまざまな理由をつけて、「しんどさ」と真正面から立ち向かったり、我慢したりしてしまいがち。
「しんどさ」は、本当に真正面からマジメに向き合わなくてはいけないものなのでしょうか?
全力で「逃げる」ことを勧めたいというコラムニストのりょかちさんに、特集「ひとりじゃ、そりゃしんどいわ」でコラムを執筆いただきました。
#ちょっとマシになるかも?
仕事は好き。でもしんどいし、めんどくさい
人生、すべてがめんどくさい。
一週間に一度は「もうやだ……」と言っている気がする。
というのも私は、とにかく根性のない人間に生まれたのである。家族全員運動神経が良い家庭に生まれたのに、私だけ鉄棒の逆上がりもできなければ側転もできなければ泳げないのは、シンプルに何かを一人前にできるようになるほどの根性がなかったからだと思う。
マラソン大会は特に嫌いで、小学1年生の頃にあまりにも辛かったことから、小学生生活の残りの5年間、全部仮病で病欠した。5年生のとき、さすがに言い訳の種類が尽きて、「目が痛いです」という適当すぎる嘘をついて病院に行ってずる休みしたら、病気が見つかってその日に手術したことがある。人生でサボった回数が多すぎて、サボったことで命が救われたことがある人間になってしまった。
そんな人間なので、就職活動のときにも「すべての仕事はしんどいに違いない」と考えて、「やりたいこと」よりも「絶対やりたくないこと」を考えて仕事を選んだ。自分に対する信用がゼロである。
しかし実際今になってみると、「どの地獄を引き受けるか」が大事とでも言うべきか、 “本当に嫌だ! と思うタスクがない” というのは、その仕事への満足度に大きく貢献することがわかった。社会人になってから今までずっと、私は自分の仕事が割と好きだ。
それでも、どんな仕事もしんどいことには変わりない。宮崎駿が昔、ジブリを特集した番組で「めんどくさい」と何度もつぶやきながら机に向かい、「世の中の大事なことってたいていめんどくさいんだよ」と言っていた。社会の役に立って、お金をもらうなんて、めんどくさいに決まってる。人生で、価値あることに関わろうとするならば、それはだいたいめんどくさいのだ。
仕事は好き。でもしんどいし、めんどくさい。そんなことを言いつつ、私もなんだかんだ社会人7年生になる。働き方は変わっているけれど、なんとか働くということについて “やらない” という選択肢は取らずに続けている。ただ、それはなぜかと言えば、決して辛抱強くなったというわけではない。
ひとえに「逃げる」ことがうまくなったからだ、と思うのだ。
壊れないことと同じくらい、壊れても直せることも大事
そもそも、仕事への愛としんどい気持ちはまったく無関係だ。仕事が好きだからといって、しんどくならないわけがない。
「しんどい」からの逃避を仕事の中で完結させるかどうかの違いしかないのである。
仕事が辛いとき、仕事に愛がある人は、仕事の好きな部分を思い出せばしんどい気持ちをごまかせることもあるし、仕事に愛がなくても、週末の予定や推しを思い出せば気持ちが落ち着く人もいる。そこには貴賤もなければ正しさもない。ただ、足元がふらついたときに、どこで足を支えようとするかの違いしか無いのである。
何より大事なのは、自分の「しんどさ」を感じたら、そこからさっさと逃げ出すことなのだ。
たとえば私は、あるときから、自分の「しんどい」を研究し始めた。「しんどい」と思うことがあると “何が起こって” “どうしんどかったのか” を書き留めるようにしている。加えて最近は、何をしたらどれくらいで回復したのかも記録している。
私の場合、「しんどい」と思うときの多くは「何を期待されているのかわからない」ときか、「自分が軽んじられている」と感じるときだということを突き止めた。
時期的には、生理一週間前は些細なことで気持ちが落ち込みやすい。そして、明らかに起こっている現象に対して心が落ち込みすぎるときは、睡眠不足である場合も多い。
さらに、そんなときはひとまず眠るか、とにかく周りに愚痴るか、嫌な気持ちを日記に書くことで気持ちが落ち着くのも知っている。
歳を取ることは自分を知ることで、だから年々しんどさに対する耐性もついている気がするが、それは、しんどいことが起こるたびに凹んで、喚いて、ときに休んで、その過程を繰り返してきたからだと思う。つらい気持ちから逃亡した数だけ、私の中に知見が溜まっている。
私だけではなく、周りの友人たちも、うまく “しんどい” と思うことから逃げている。
メンタルが強い人って、「何を言われても平気」な人もいるけれど、一定数、「しんどいことを騙し騙しやるのが上手」という人もいると思う。壊れないことと同じくらい、壊れても直せることも大事なのだ。
たとえば、先輩はわかりあえない相手と向き合うとき、「なんでわかってくれないんだ!」と感情になりそうになると、その気持ちを抑えて、空に浮かび上がるイメージをするのだという(ちょっとこわい)。その上で、「僕らの共通の目的」と「わかりあえていない部分」を整理するそうだ。つまり状況を鳥の目で見るということで、空に浮かび上がるのはそのための導入ルーティンということである。
もう少し身近な例で言うと、数ヶ月に一度旅行を必ず設定して、その旅行に思いを馳せて「しんどい」ことに耐える人や、行きつけのバーで一服することで気持ちを落ち着けるようにしている人もいる。
私は割と自分の仕事が好きなので、「しんどい」と思うことも、自分が仕事をしていて嬉しいことを思い出すと少し自分を慰めることができる。
けれど、仕事が別に好きじゃないなら仕事とは全然別の所で自分を慰めてあげればいい。
そして何より、これまで「しんどい気持ちから逃げながら、仕事を続ける方法」を話してきたけれど、何をしたって仕事が「しんどい」ならば、仕事から逃げてもいい。仕事は誰にとっても人生の一部でしかないのだから。
「逃げる」とは、「逃してあげる」こと
「しんどい気持ちとどう向き合うか」「どう克服するか」ということが議論されがちだけれど、向き合うって、それ自体がもうしんどい。だから私は何度も言うが、いっぱい逃げることをおすすめしている。
「逃げる」というと悪い言葉のようだけど、それはつまり、しんどい気持ちを「逃してあげる」ということだ。
心は簡単に鍛えられない。だから、しんどくなった心を逃してあげる方法をたくさん知っておくことも大事なのである。
私たちは小学生がいじめられているのを見ると「学校なんて行かなくていい、勉強なんて家でもできるんだから、自分の心を守って」と声をかけたくなる。悪い恋人にいじめられている人を見ると「そんなやつからは逃げて! 男は他にいくらでもいるんだから」とアドバイスしたくなる。なのに、どうしてか、自分の仕事のことになると「しんどいことにも向き合わなくちゃ」とか、いつの間にか思っている。
本当に私たちが逃げられないのは「自分」だ。どうあがいたって、自分からは逃げられない。
だから、本当に大事なものを続けるために、「しんどい」気持ちからは何度も逃げるのがいい。心を逃がしてあげる方法を何度も何度も思いつこう。
逃亡方法を思いついて実践しているうちに、「こうすれば上手に逃げられるな」ということが見つかれば、健やかに毎日を過ごしていける。さらに、「しんどいけれど面白いかも」と思えるものに挑戦することだって可能になるだろう。
逃げながら、つづける。それがオトナの戦い方
しんどいことに、向き合い続けることだけが強さではない。しんどいことを受け止められるようになることだけが強さでもない。ゲームでも、強力なボスと長期戦で戦うときには、「かいふくまほう」が重要なのだから。
大事なのは、しんどいことでHPが減ったら、 “かいめつてきなダメージ “ になる前に適切に回復して、プレイを続けることなのである。
逃げながら、つづける。逃げながら、楽しむ。逃げながら、戦う。
それは、自分と対話しながら極めるオトナの戦い方だ。
今日も、しんどいことからは、全速力で逃げよう。「どうしたらこの辛さに心が慣れるか」ではなく、「どうしたらこの辛さから心が逃げられるか」を考えよう。私たちが戦っている「仕事」という相手は、重要で、だからこそ、ときに手に負えないほど重くて大きい。
だから、ゆっくり戦おう。逃げながらも粘り強く戦って、逃げている道すがら、最後の一撃をどうかっこよくキメるか、ワクワクしていようじゃないか。
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執筆
撮影・イラスト
冨田マリー
京都出身、東京在住。 2017年1_WALLファイナリスト、2017年LUMINE meets ARTAWARD ルミネ賞受賞。 装画・挿絵、広告イラスト、コミック作成等手掛けている。
編集
あかしゆか
1992年生まれ、京都出身、東京在住。 大学時代に本屋で働いた経験から、文章に関わる仕事がしたいと編集者を目指すように。2015年サイボウズへ新卒で入社。製品プロモーション、サイボウズ式編集部での経験を経て、2020年フリーランスへ。現在は、ウェブや紙など媒体を問わず、編集者・ライターとして活動をしている。