お坊さんの悩みを聞いたら、一般人より闇が深かった
お坊さんと言えば「人格者」というイメージです。悩みごとがあれば「その場合は、こうするといいですよ」と導いてくれる……そんな印象があります。メディアでも、説法されている姿をよく観ますよね。
そんなお坊さんですが、実は、かなり悩んでいるようなのです。ひょっとしたら、一般人よりも「闇が深い」かもしれません。
今回は、若手のお坊さんを対象にしたキャリアスクール「TERA WORK SCHOOL」を運営されている株式会社人と土の田中勲さんと、講師をつとめられている光琳寺 住職の井上広法さんに「お坊さんのキャリア」についてお話を伺いました。
そこにあったのは、ビジネスパーソンにも通ずる内容でした。「お坊さん」を「わたし」、「お寺」を「会社」と読み替えると、いろんな「闇」から、さまざまな「人生訓」が見えてきました。
お坊さん、悩みってあるの?
あと、生活と言えば、葬儀があったときにお経を上げるのが仕事で、檀家さんがいればお布施もあるし、生活は安泰……みたいな印象があるのですが、そもそもお坊さんって、悩みってあるんですか?
以前は、住職として檀家さんたちといっしょに寺を運営していけば、あまり難しいことを考えなくてもやって行けたんです。
でも時代が変わって、いざ継ぐとなったら、檀家さんが減っていたり、お寺離れが進んでいたりして「聞いていた話と全然違う」と。
将来を決められているから、自分と向き合えない
生活も仕事もお寺とともにありますよね。お寺と自分が重なりすぎていて。あるTERA WORK SCHOOLの参加者は「お寺と自分を離して考えるのが怖い」と言っていました。
お寺を剥がしたとき、「そこに自分というものがなかったなかったらどうしよう……」って思ったら、怖すぎて覗けないんです。
「自分」は常に変わるし、自分自身に「これだ!」と固執しすぎるのは違うと思います。それでも、つど自分の輪郭を掴もうとする行為は必要です。これはお坊さんに限らない話で。
ふだん若者支援や企業支援をする中でも、自身のリーダーシップやパーソナリティーがどういったものかを考え、それをどうキャリアや経営にフィードバックさせるかに向き合います。
お寺の「あるべき」の呪縛
その方針自体を否定するつもりはないですが、その子がしんどくなっているのは事実で。
なので、僧侶としてはありたいんだけれども、「お寺で働くことに未来や希望を見出せない」と言っていました。「お寺を継ぐ=人生が終わる」みたいな。
その結果、職業や進路選択すら自分の意思なのか、それとも、お寺をおもんばかっての意思なのか、わからなくなってしまう。
一方で、全くの異業種だとそもそもの前提が共有しづらいから、身近に相談できる相手が意外といないんです。
どんなキャリアを積むかもそうですし、お寺の経営にしてもそう。「正解」がないことに向き合っていかなきゃいけない。自分の軸がなかったり、仲間がいなかったりすると踏ん張れないというか、ちょっとしんどいんです。
「逃げられない」重さ
でも、お寺は住職のものではなく、あくまでも管理している立場なんですよね。管理できないとなったら、別のお坊さんがお寺に入る必要がある。
だから、僧侶の場合、別のことができないんです。たとえば「お寺をやめてマンションにします」って言ったら、「お墓はどうするんだよ」ってなりますからね。だから、家も、墓も、ふるさとも全部なくなります。
社会のどのフィールドで「自分の個性を発揮するか?」
そこでまずお伝えしているのは、「いったん、お寺のことは横に置いておいてください」と言っています。「△△寺の〇〇」です。じゃなくて「〇〇さんとして、そこにいてください」と。
基本的にソーシャルマインドが高い人が多いと思いますが、言い方を変えると「自分は」がない。
そのために「この先、僧侶としてどう働き、生きていこう」と考えた時、若い僧侶ほど悩んでしまうんです。
そこで、あえてベクトルを自分に向けて「自分と向き合ってみる」というか、「自分の輪郭を見てみる」というか、「大事にしていることは何なのか?」を探るワークショップをします。
そのあとで、お寺や僧侶を定義しなおします。今度は自分を1回横に置いて、お寺や僧侶という仕事を拡張するというか、範囲を広げるんです。
そこで、僧侶の前に好きな言葉をつけて「〇〇僧」と表現するんですよ。
たとえば、お坊さんにも絵がうまい人がいます。そのお坊さんは「画僧」と言われてきました。音楽が好きなら「音楽僧」、俳句だったら「詩僧」とかね。勝手に自分で定義する。何をつけてもいいんです。
「自分」と「僧侶」をつなげる
ところが、いざ住職になると、自分の裁量で何でもできるんですよ。たとえば僕は、テレビ番組の企画や企業研修のファシリテーションなどジャンル問わず取り組んできました。
他にも、2019年にコワーキングスペースをつくりました。「寺をひっくり返そう」という思いも込めて「áret(アレット)」という名前を付けました。
「こんな裁量権があったんだ」ってことに気づくと、自分のできることでもいいし、好きなことでもいい。「お坊さん」に加えて、トッピングしたり、掛け算したりする。
お坊さんって1周回ると意外とね、生き甲斐がある立場なんです。
そうすると、“手段”に惑わされなくなるんですよね。
でも、自分と繋がっていると、周りがどうとか関係なく自分は楽しいし、やりがいも生まれていく。
お寺のために、地域のために……も大事だけれど、まずは「I」――つまり、自分を出発点として、どういうWillを持っていて、どんなパーソナリティを持って、どんなことが楽しくて、どんなリーダーシップを表現していきたいのかを大切にしてほしい。
「自分」と「僧侶」が結びつくと、仕事もキャリアも楽しいし、お寺の経営も楽しいはずなんです。
その十字架をおろして、個人として自分自身と対話をすることが大切なんです。
ライスワークかライフワークか
もし、わたしたちがキャリアに対してモヤモヤしていているとき、「大切なのは、つまりこういうことなんだよ」みたいなことって、一言で言うとなんだと思いますか?
レンガ職人の話ってあるじゃないですか。傍から見ると、みんな同じレンガを積んでいるんだけれど、1人目は、今日食べる日銭を稼ぐため。つまりJobですよね。
2人目は、もっといい仕事をもらうために、仕事で成果を出す。つまり Career ですよね。
3人目は、100年後もこの街に残る大聖堂を作っているんだ。これをCalling……つまり、天職とか、お召しです。僕は仕事を Calling に変えていくことがとても大事だなと思っていて。
仕事をこなすんじゃなく、キャリアを高めるのでもなく、どこに行きたいか指をさす、ディレクションをすることですよね。
ライスワークかライフワークか。そこの判断がこれからすべての人たちに問われていく。
そのためにも、一度自分を内省して、「そもそも何だ? 自分は」を見つめてみなきゃいけないわけですよ。
弱みを開示できる仲間の大切さ
強さももちろんそうですけど、弱さというか。それをちゃんと開示してくれるコミュニティがあるのはいいことなのかな?
だからといってグチグチ言うのは違うと思いますが、いいところや強みの共有だけではなく、弱みや停滞感も共有できる関係性は大切です。
弱みを共有できれば、帰れる場所ができるし、いっしょに開示した人は仲間になる。そこから、日々どうアウトプットしていくかを考えていけると良いのかもしれませんね。
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執筆
竹内 義晴
サイボウズ式編集部員。マーケティング本部 ブランディング部/ソーシャルデザインラボ所属。新潟でNPO法人しごとのみらいを経営しながらサイボウズで複業しています。