池波正太郎に学ぶ「クリエイティブの秘密」と「からだの感覚」の関係性
元気な新生徒の登場
平山登先生による「ビジネス偉人伝」講義、今回は、いつもの千野根さんに代わって新生徒さんが参加することになりました。
青野わかばと言います。入社2年目で千野根さんの後輩です!先輩からとても勉強になる講義だよと聞いて来ました。よろしくお願いします。でも詳しい話は聞いていないです。とにかく行って来いと。
千野根さんらしいですね(笑)。社会人2年目ということは、1年を過ぎてようやく仕事に慣れてきた頃かな。
う~ん、どうでしょうか。慣れてきたというよりもいろいろ悩んでいます。
慣れてきたからこそ生まれる、2年目の悩みですか。
うちの会社って典型的な日本的経営の会社でして、平均年齢も高い。だから、会社の雰囲気も古典的というか、古臭いといいますか。
うん?!(千野根さんが行って来いと言った意図が見えてきたような・・・)
この際、わかばさんの最近の不満を聞かせてくれませんか?
いろいろありますけど。まず、うちの会社にも研修とか先輩による指導があるんですけど・・・なんか説明不足と言いますか。とにかくやってみろ、という指導方針なんです。私だってちゃんと納得できればいろいろ学びたいんですが、研修の目的とか指導の効果が不明確なのです。
ふむふむ。学びたいこととは、具体的に言うと。
私は営業の仕事をしているんですけど、例えば、スピーチ講座で対話力を高めるとか顧客向けのプレゼン能力を高めるとか。あと、将来を考えるとマーケティングにも興味あります。
3人の時代小説ヒーローを生んだ男
なるほど・・・よし!今回は人材育成の達人について講義しましょうかね。わかばさんは、池波正太郎という人は知っていますか?
知っています。有名な時代小説家ですよね。読んだことはないですけど・・・おじいちゃんが好きで読んでいます。
現役の時代小説家にはわるいのですが、今も司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平という3人の時代小説家は圧倒的な存在感です。お亡くなりなった後も売れ続けているという意味では“現役作家”。
なかでも池波正太郎さんは、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」という3つのビックシリーズ、3人のヒーローを生み出していて、もっとも読者が多いのではないでしょうか?すべてドラマ化されています。
時代小説だから、古い時代の人が優れているんでしょうか?
わかばさんは「古い時代の人」と言いますが、池波先生も1923年(大正12年)生まれですから江戸時代の人ではありませんよ。何か後進者が追いつけない能力を身につけているんでしょう。
わかった!時代小説の偉人から能力育成を学ぶことが今回の目的ですね。
正解です!それでは、いよいよ講義に入りましょう。
「学校外」の学び
まず、池波先生は小学校卒業後すぐに働いていますので、能力育成という点では、徹底的に「学校外の人」です。文学の師匠(長谷川伸先生)はいるのですが、基本的には仕事をしながら小説家を目指した人です。
小説家=高学歴というイメージがあります。
そういう人が多いでしょうね。しかし、池波先生のような大衆時代小説の場合、世間で揉まれた経験知が小説に活かせることが多い。
実は、池波先生が最初の勤め先は株式仲買店、つまり、その当時社会的評価が低かった証券会社です。仕事のやり方を覚えた青年期、池波先生はうまく取引をして小金を貯めては、仲間と一緒にいろんな道楽をしています。
道楽?
早いうちに大人の文化に触れたということですね。銀座で洋食を食べたり、映画や演劇を見たり、国内旅行を仲間と楽しんだり、女遊びで吉原も・・・ははは、昔の話です。
・・・遊んでばかりで小説家になれます?
疑問は生まれますよね。もちろん、道楽人がすべて小説家になれるわけではありません。でも、小学校卒の池波先生の場合、若い時期に、仲間と一緒に道楽を覚えたことは役立っていると思います。だって、池波先生の小説に登場する遊び人は実にリアリティがあります(笑)
そうそう、鬼平犯科帳の主人公、長谷川平蔵は、若い頃は手の付けられないほどの遊び人です。その後、火付盗賊改方長官になって盗賊と戦うのですが、悪徳の世界を知っていることが平蔵の人間的な深みになっている。
人間的な深みですか。私も単なるマジメくんは嫌いかも。現役のワルは嫌だけど・・・。
イメージを「からだ」に貯める
人間、二面性がなくっちゃね。
池波先生は最初、時代劇団の脚本家として活躍し、その後小説家に転身しますが、三大シリーズの連載が始まるのは、40代中頃以降なのです。もちろんその前から小説を書いていますが、経験知が40代になって花開いたと言うべきでしょうね。
40代中頃って、オジサンですよ。24歳の私にとっては、だいぶ先ですよね。
40代を目指して頑張れと言われてもぜったい待てません。
確かにそうですね。知識だけならば覚えればよいわけで、短時間で習得可能です。生まれ持った才能を開花するだけの分野もある。しかし、大衆小説である時代小説の場合は違います。池波ファンは、先生の食エッセイと旅行エッセイを読むのが好きなのですが、実はこのエッセイ集の中に、創作に繋がる能力育成の秘密が隠されています。
私も食べ物や旅行は好きです。能力育成とは思わないですけど。
池波先生は、こんなことを書かれています。
「私ども、時代小説を書く者が、何かにつけて京都や金沢へ出かけるのは、むかしをなつかしむこともないではないが、自分の仕事の上にも、いまのうちにできるだけ、江戸のイメージをかためておきたいからなのだ。」
『散歩のときに何か食べたくなって』(新潮社)
江戸=東京は、空襲と戦後の開発で江戸の残り香がなくなっている。だから「京都にある江戸」を探している。
ここで池波先生が「かためておきたい」と書いているのは、面白いですね。例えば、電柱も電燈もない民家だけの道がかすかに残っているならば、その道を一人で歩き、夜の闇の深さを「からだ」に染み付けておく。何でこんなことをするのか。
わかった!その経験が小説を書くときの臨場感を生み出す。なんだか池波先生のエッセイを読んでみたくなりました。
江戸の闇は深いでしょう、不安でしょう。盗賊がいるかもしれない。そういうイメージをからだに溜め込む。そして、からだを使って小説を書くから一つ一つの文章が生きてくる。池波先生は、その経験をわざと生み出すこともあるんです。
先生が彦根に講演旅行に行った際に、招宴が伝統ある料理旅館で行われます。ここで池波先生は、一人の男性に惹きつけられるわけです。当時の彦根市長、井伊直愛(なおよし)さんです。
あ、井伊大老ですか。
つまり、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の子孫です。この宴席で池波先生は、市長と一緒に長唄を歌い、さらに市長は三味線を演奏することになります。この突然の誘いに池波先生が積極的になるのはなぜでしょうか?
歌が好きというだけではないですよね・・・たぶん。
もちろん。池波先生は、「時代小説を書くものとして、この機会を逃したくなかった」と書いています。さらに次のように語っています。
「うす汗をにじませた真剣な姿を、私は、いまも忘れない。上手下手を超越したものであった。(これこそ、真の大名芸)だと、私は感じ入った。この時のイメージを何とか小説に書きたいとおもいながら、まだ、果たせていない。」『私の歳月』(講談社文庫)
「からだ」の感覚を磨く
市長のイメージを時代小説の中の登場人物に活かそうとしているわけですか。だからわざと。
「一つの感覚」という経験を、将来に向けて大事に育てていく。いつか花開く。
創作の秘密がここにあると思いませんか。
私もいろんな経験をして、たくさんの感覚を育てていきたいです。でも、小説家になるわけでもないし、営業の仕事に役立つのでしょうか。
ぜったい役立つと思いますよ。でも、イメージを貯めることとは別に、そのイメージを活かす方法も学ばなければなりません。池波先生は、その創作に役立てる道筋を、戦時中に徴用された工場において旋盤工(※)の先輩から学んだと語っています。
※旋盤工(せんばんこう):特殊な機械を操作して、金属の加工を行い部品などを製造する技術者のこと
ここでは「遊び」からではなく、「工場」で学んだですか!これはまたずいぶん飛びますね。
株屋で儲け、遊んでいた池波青年は、工場でいきなり旋盤を担当するのです。本人がおっしゃるには、どうも不器用で、他の新人が三日で覚えるところを一カ月もかかってしまう。ここで指導担当であった水口伍長があきらめずに鍛えてくれなかったら、とてもモノにならなかったと、池波先生は書いています。
その上司は教え上手だったのですね。
わかばさんが思っている「教え上手」とは違うような気がしますね。指導の目的とか、教育効果とか全然説明しません。ただ、旋盤機械を「人間あつかい」します。
「人間あつかい」ですか!?
例えば、機械に油を入れるときも「飯を食わしてやれ」と言ったり、「今日の調子はどうだい」と話しかけたりします。
つまり、機械を単なるモノとして捉えるのではなく、ヒトとして、からだの感覚の延長として捉えている。傍から見れば、あまりにも怪しいですが・・・。でも、池波先生は図面を穴が開くように見て、仕事の点順を考え、そして相棒の機械を動かすうちに・・・。
「或日。突然に、ぱっとわかった。図面が読めるようになり、機械が手足のようにうごいてくれはじめた。」
「それまでに私は、そうした経験をしたことが一度もなかった。自分で手と躰で苦しみながら物を造りあげるという体験が、ほとんどなかったといってよい。」『日曜日の万年筆』(新潮社文庫)
「手と躰で苦しみながら物を造りあげる・・・」これが小説を書くのと同じことなんですか。
「私にとっては、躰の感覚だけが、たよりなのだ。物をつくるという手順を、感覚で躰におぼえこませたことが、いまの私の仕事の基盤になっている。」
『日曜日の万年筆』(新潮社文庫)
池波先生は、躰(からだ)の感覚を研ぎ澄まし、神経を時に盗賊にも近づき、殺し屋にも近づく。つまり、物語のラストを決めずに、登場人物の「神経」になりきって、いきなり書き始めるのが池波流・小説術です。
わかばさん、営業の仕事だってからだの感覚が重要なのは同じではないですか?
どんな感覚なのかな-。この前、凄い迫力の創業社長さんに会って、その迫力にびっくりしましたけど。これもからだの感覚ですか。
それかもしれません。ただ、その経験をどのように今後の営業に繋げるかが課題です。営業先でなくてもいいですよ。遊びでも他人と話すでしょ、不思議な人だなーとか、魅力的な人だなーとか。
その感覚をからだに蓄積していけば、多様なコミュニケーションのストックができます。営業力も高まる。
著名な経営学者の野中郁次郎先生は、そのような知識を暗黙知と呼んで「経験や勘に基づく知識で、個人では言葉で表現が難しいもの」と定義しています。(野中郁次郎氏が語る「暗黙知はもやもやしたもの」)
暗黙知理論ですね。勉強したことがあります。
さすが勉強家の新人さんだ。池波先生は、鬼平犯科帳の中では主人公に「勘ばたらき」と言わせています。どうです。こっちの方がかっこいいですよね。ただし、言語化しにくいところがポイントで、事前に目的や効果が説明できない。
私は、いつも理由を訊いていました。これじゃダメですね。
いやいや入社2年目にそれに気付ければ、すごいですよ。池波先生は、自分自身の「勘ばたらき」を磨きつつ、その感覚で登場人物たちを描いているんです。その感覚・勘の鋭いこと、多彩なこと。だから、若い人にこそ池波先生の時代小説やエッセイを読んでほしいな。そして、池波先生の人生に学んでほしい。学校だけが育成の場じゃない。身体感覚を研ぎ澄ますのは、我々の生き方そのものに掛かっているんです。
だからこそ、池波先生は、ビジネスの偉人なのですね。
正直、時代小説と聞いて、はじめは疑問に思っていました。平山先生の講義を受けて、池波先生の小説にも人生にも惹かれました。
さっそく本屋さんに行ってみます。講義、楽しいです。次回も楽しみです。
完全に生徒交代ですね。次回も勉強しましょう。
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