「意識高い系(笑)」にならず、意識高い系を笑わないためには? ──吉本隆明、最初にして最後の課題
名前だけは知っていても、その具体的業績は意外と知られていないビジネス界の偉人を分かりやすく解説してもらい、あわよくば我々の明日の仕事にも生かしてしまおうというお得なこの「ビジネス偉人伝」。
これまで、D・カーネギー、二宮尊徳、手塚治虫、萩本欽一、池波正太郎を取り上げましたが、今回は最近よく耳にする「意識高い」ということについて、偉人を介して考えてみます。
「意識高い系(笑)」とは何か?
久しぶりの講義ですね。前回に引き続き、勉強熱心な2年目社会人のわかばさんと一緒にビジネスの偉人について学んでいきたいと思います。
前回は池波正太郎先生でした。実は、祖父にこの講義のことを話したらとても喜んでくれました! ちゃんとエッセイも読みましたよ。女友達と池波先生なじみの神田の蕎麦屋さんに行って、人生初の"蕎麦屋で一杯"を経験しました。
いろいろ役に立ったみたいですね(笑)。
友達にも「いろいろ相談できるよ」と自慢しちゃいました。
相談…まあ今日も、いろいろ質問を受けながら進めていきましょう。
そうだ! 今日は平山先生に聞いてもらいたいことがあるんです。今年4月から新入社員が入ってきたんですけど、この男の子がちょっと困った感じなんです。
おっと、いきなりですね。まあ聞きましょう。その困った感じというのは?
「意識高い系(笑)」です。すごい自信なのですが、行動が伴わないというか…。新人のくせに「上から目線」でいろいろ語るんです。
この前も先輩があるプロジェクトの仕事を振ったら、「その仕事に意味ありますか」という反応で、プロジェクト・マネジメントの役割を語りはじめちゃって…。それで世界基準ではとか、アメリカのベンチャー企業ではとか、ビジネス書で読んだ「浅い知識」を出してくる。その先輩も「新人なんだから、まず、仕事をしろ」って怒っていました。
なんか思い浮かびますね。常見陽平著『「意識高い系」という病~ソーシャル時代にはびこるバカヤロー』 (ベスト新書)によれば、意識高い系とはセルフブランディング、SNSで人脈自慢やでかい発言を連発しつつ、実際は実行が伴わない空回りの人ですね。特に若い時は、まだ中二病が完治していない人も多いですから(笑)。
有名人と知り合いのような発言をしているから「知り合いなの」と聞いたら、Twitterをフォローしているだけ。もうびっくりです。
ははは…なんか、ほほえましいけど。でも、逆に聞きますが、同僚が意識低い人でもいいんですか。
えー、意識が低い方はイヤです。実力が伴えばいいんですが…。
じゃあ実力があれば、どんな上から目線の発言をしても嫌われないのかな。だいたい意識高い系の人がよく名前を挙げるスティーブ・ジョブズなんて人は、近くにいたらとてつもなく嫌な上から目線の人でしょう。
そう言われると、意識低いわけではなくて実力があって、でも上から目線ではなくて…。そんな人いないかも…平山先生、どうしたらいいでしょうか。
実は意識高い系という病は、意外と根深いのです。「意識高い系(笑)」は、完全に空回りの人物です。しかし彼らを笑ったとしても、それは「嘲笑」でしかない。どうすればよいのか。
「笑われず、笑わず」ですか。たいへん。
戦後最大の思想家
この問題を考え続けた思想界の巨人に吉本隆明さんがいます。名前は聞いたことがありますか。
若い人には、よしもとばななさんのお父さんと言った方がわかりやすいかもしれません。吉本隆明さんは、60-70年代、若者たちから圧倒的支持を受けた思想家です。戦後最大の思想家と呼ぶ人も多いです。最大かどうかはわかりませんが、戦後日本での影響力の大きさでは一番でしょう。全集が刊行されはじめましたが、全38巻、別巻1巻の予定です。
わあ、すごい量。一生かけても読めません。
吉本隆明さんは、大学人ではなくてプロ思想家として文筆だけで生きた方なのです。民間思想家である点も、吉本さんの魅力です。
今回は心して勉強しなくては!
意識高い系=自意識過剰?
吉本さんの考えたことは言語、心理、経済、社会、文学と多岐にわたります。また、数々の論争を繰り広げながら思想界のスターになった方です。この限られた場で彼のすべてを語ることは難しいです。1つ、吉本隆明の強みを挙げれば、「知識人とは何か」をとことん問い続けた点でしょうね。
知識人ですか?
知識人というと、単なる勉強ばっかりしていた頭でっかちな人。
ええ、その通り! あ、すいません。平山先生は違いますよ。
ははは(笑)気をつかわずに。でもわかりやすく言ってしまえば、意識高い系も知識人の亜種です。だって一般人より自分は知識を持っているし、よく考えている。だから社会を変えられると思っているわけですから。
だから今は「知識人=意識高い系」のあり方を吉本さんから学ぶわけですね。
その通り。言ってみれば、意識高い系からの脱出法ですね。だって、我々は社会について考えると、「無意識に意識高く」なってしまうものです。だから、高くなるなではなく、高くなってからどうすればよいのか。ところで吉本さんのデビューは詩人です。若き吉本隆明は、超・意識高いことを書いていますよ。次の詩の一部を読み上げて下さい。
「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によって ぼくは廃人であるそうだ」廃人の歌より 『転位のための十篇』
すごい。これは意識高すぎます! 真実を知っている、語ってやろうか、全世界が凍るぜ、という感じ?
文学者なんて自意識の塊ですからね。吉本さんも、若い頃にそのような自意識過剰の地獄を抱えていたのでしょう。でもよく読んでください。この一文は次のような構図になっています。後半部分の、「妄想によって、ぼくは廃人であるそうだ」という突き放した言い方はもう一人の自分が客観的・批判的に自分を見ているという構図になっています。
たしかに、何か不思議な言葉の連続です。
この客観的・批判的視点があることが、まず意識高い系脱出には欠かせないでしょう。要するに「意識高い系(笑)」とは、自意識過剰な状態。だから「意識高くなってしまった自分を見つめるもう一人の自分」をつくることが必要なのです。
ところで、詩人・吉本隆明は、その後、政治運動へと積極的に参加していきます。
今度は政治ですか。これも意識高いですね。
大衆を啓蒙する知識人は「終わってる」
あの~、60年安保闘争って、テレビで古いニュース映像で見たことはありますが、よくわからないです。
自民党による日米安全保障条約(安保条約)の強行採決に反対する政治運動です。60年安保闘争の時は岸信介、つまり安倍首相のおじいちゃんの内閣ですね。新安保条約の調印はされるものの、岸内閣は退陣します。
安倍さんと安保は、おじいちゃんの時からの因縁関係があるんですね。
野党政治家、労働組合、市民運動家、学生が参加するわけですが、吉本さんは既存政党である共産党や社会党ではなく、共産党を脱党した急進派学生を支持します。なぜか? 既存政党は、どんなに易しい言葉を使おうが、自分たちを「前衛」だと考えているからです。
吉本さんは『擬制の終焉』という歴史的な著作によって、この既存政党の欺瞞を批判します。つまり「知識人は、自分たちは前衛だと思って大衆を導いてやろうと思っているけど、それは思い上がりだ」と啖呵を切った。さらに返す刀で、進歩派の穏健な大学知識人へも「お前ら、どんな立場で大衆を啓蒙しようと思っているんだ」とぶった切ります。つまり、前衛と啓蒙は、擬制(同一のもの)だ、オワリだ。これがカッコイイ。大衆でもある学生たちは、この啖呵にシビれた。
前衛や啓蒙の意識って、意識高い系と同じですよね。「俺って最先端、俺が教えてやる」。
そうなのです。吉本隆明氏の特異な、そして徹底した思想的立場は、以下の一文でも示されています。
「市井の片隅に生まれ、そだち、子を産み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。」『カール・マルクス』
「実生活」の中に埋没している大衆(吉本さんは、それを理念化して「大衆の原像」と定義します)と、「実生活」から乖離して観念の世界に生きる知識人は交わらない。そして、知識人は偉そうにしているけれど実はとても脆弱、とても不安定な場所に立っている。
知識人が弱いって意外です。
つまり、脆弱だからこそ、自分たちを前衛と思いたがっている。結局、お前らの心の問題じゃないか、社会にそれを垂れ流すなと。
【Step1】 自分が意識高い系だと批判的に気付き、弱さを自覚する。【step2】一般人(大衆)が持っている生活の実感を繰り込む。これが、意識高い系の脱出方法になるのですね。
最後の吉本、最後の課題
そうなのですが、そうやすやすとは脱出はできません。大衆(大衆の原像)の側から始まる思想は難しい。だって、そうでしょう。実力のない意識高い系は笑えても、マルクスやスティーブ・ジョブズは偉いと思ってしまう。そう思ってしまうのは必然だけれども、大切なのは、仕事の成果とその人間の価値を一緒にしないこと。
文明は自然に進歩しますし、それに貢献する人もいるけれど、その貢献によって人の価値を判断するのは「幻想」なのだと、同時代において同価値であると、吉本さんは明確に書いている。ちょっと難解なのですが、直接引用しましょう。
「人間が知識―それはここでとりあげる人物の云いかたをかりれば人間の意識の唯一の行為である―を獲得するにつれて、その知識が歴史のなかで蓄積され、実現して、また記述の歴史にかえるといったことは必然の経路である。
そして、それをみとめれば、知識について関与せずに生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるものであると幻想することも、人間にとって必然であると言える。」
『カール・マルクス』
知識人批判をする知識人。今、そんな人は少ないのでしょうね。
知識人村で知識人批判はできないというわけです。もちろん、観念の世界を語り、社会変革を起こそうとすること自体は間違いではないと私も思います。しかし、知識人はマイノリティ、そして「生活」から乖離していることも忘れてはならない。
わかります。でも、どうすればいいのかな。吉本さんは、みんなが大衆になればよいといっているわけではないのですよね。
吉本さんは、悪人正機を唱えた宗教家、親鸞について次のように語ります。
「<知識>にとって最後の課題は、頂を極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂を極め、その頂から世界を見おろすことでもない。頂を極め、そのまま静かに<非知>に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。」
『最後の親鸞』
これは親鸞について語っているのではなくて、吉本さん自身について語っているのだと思います。往くよりも還る方がはるかに難しい。世界中を見渡しても、知識人のあり方に関してこんな「究極の発言」をした知識人はいません。今風に言えば、unlearningのススメと言えるかもしれませんね。
お話を聞いていて、同僚の意識高い系くんなんて、どうでもよくなっちゃった。そもそも彼を笑っていたけど、実は私も意識高い系だったのかも…なんて。「最後の課題」について、私も考え続けないといけないですね。
最後の課題は未解決。これからですね。私も、先生と呼ばれる虚業をしているからこそ、いつも心に吉本さんの言葉を抱えています。吉本さんの思想は1つの答えではなく、1つの大きな問いなのです。そしてその問いは、今も存在観を持ち続けています。いつかまた、吉本隆明さんについて語り合いましょう。
はい。今回もありがとうございました。
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