自分らしくいられる心地よさは、“自立”に近い状態──東京大学・梶谷真司教授
コロナ禍や働き方改革などを経て、人生の選択肢が増えつつある昨今。
その自由さゆえに、かえって「何をすればいいのかわからない」「どんな選択が自分にとって幸せなのだろうか」と悩む声を耳にすることがあります。
多様な選択肢があるなか、自分らしく生き・働くために何が必要か──それは、自分で選び責任をもつ「自立」と、その自立をフォローしあう「チームワーク」ではないか、とサイボウズ式編集長の神保麻希は考えました。
自立という覚悟は個々に必要である一方、一人ひとり達成するペースは異なります。だからこそ、自立を自己責任とせず、チーム全体で相互に達成していく必要があります。
ただ、自立は解釈の幅が広く、神保はもちろん、サイボウズ全体としても、まだはっきりとした輪郭は見えておりません。
そこで今回は「働くうえでの自立」についての考えを深めるため、大学や企業で“哲学対話”を実践している東京大学大学院総合文化研究科教授の梶谷真司さんにお話を伺いました。
選択肢が増えたからといって、必ずしも幸せにはならない
大学には会社組織のように職務上の上下関係がなく、学内に必ず頭を下げなきゃいけない相手もいないので。
それでは、まずサイボウズの働き方についてお話しさせてください。
サイボウズでは「100人100通りの働き方」を掲げており、一人ひとりのメンバーが希望の勤務時間や場所、雇用形態、それに応じた給与などをマネジャーと相談しながら決めています。
ただ、いろんな選択肢があるがゆえに、何を選ぶか迷う人もいて。多様な働き方を実現するにはメンバーに「自立」が求められるのですが、その自立の度合いにグラデーションがあるように感じています。
自分で決めるよりも、あらかじめ勤務条件が決められていたほうがいい人もいるはず。
もちろん、それはサイボウズが考える「自立した働き方」じゃないかもしれません。ただ、その働き方をどれくらいの社員が希望し、かつ、能力的に達成できるのかは別問題でしょう。
多様なメンバーが幸せに働き、組織としてチームワークを発揮するためには、選択肢の幅をどうするのがいいのか。
自分たちがどんな文化を持つ会社でありたいのか、今回の対話も踏まえて、あらためて考えていければと思います。
選択の自由がないのに、結果の責任は負わされる
この定義について、梶谷さんはどう思われますか?
学校では、生徒は基本的に授業への出席や宿題の提出が強制され、どの科目をいつ、どう学ぶかという選択肢はほとんど与えられません。
にもかかわらず、不合格という結果だけは生徒が引き受けるしかない。それって理不尽極まりないと思うんですよ。
自分で決める自由がない場合、納得できる責任がとれないわけですね。
すると、生徒は自分にとって役立つと思える宿題だけをするようになり、それを見た先生も自ずと役立つ宿題しか出さなくなると思うんです。
そのうえで、生徒が宿題をせずに受験に失敗したら、生徒の責任にしてもいいと思います。
飲み会の“自由”参加は、本当に自由か?
加えて、会社では「見せかけの選択肢」も多いと思うんですよ。
すると、結果的に飲み会に参加したほうが有利になり、参加が義務のようになってしまいます。
このとき、与えられた選択肢はあらかじめ答えが決まっている「見せかけの選択肢」だと言えます。
人に流されて、巻き込まれることにはありがたい面も
その点、勝手ながら梶谷先生は自由に働いている印象があります。ご自身ではどう感じておられますか?
一方で、不本意なことはしたくないと思っていて。どうしても違和感を抱くことがあれば「これって必要ですか?」と聞いたり、「こうしませんか?」と提案したりして、変える努力をしていますね。
サイボウズでも、働き方や仕事の進め方において何か違和感を抱くことがあれば、意見や質問を投げかけて、みんなで議論することを大切にしています。
一方で、自分で選んでいないことは、すごくありがたいことでもあると思います。なぜなら、他人に巻き込まれることで、自分が絶対に選ばない選択肢と出会えたりするからです。
巻き込まれた先で自分なりの関わり方を模索することで、新しい知見や視点を得られる。視野が広がることで、自分らしく働くことにもつながるでしょう。
加えて、もしも違和感を抱くことがあったときに異議を唱えられる雰囲気があれば、異動や転勤もよい制度になるだろうなと思いました。
主体性を大事にするなら、「自由」を受け止める覚悟を
でも、彼らの多くが望んでいる主体性って「指示しなくても、上司にとって都合のいい行動を取ること」なんですよ。
だから、本当に部下の主体性を高めたいのであれば、上司はその結果も含めて受け止める覚悟が必要です。
部下が主体的になれば、会議で上司の案に反対する意見を出すようになるかもしれない。上司は「それでも大丈夫だ」と言えるような、みんなが自由に発言できる場をつくる必要があります。
それができないのであれば、「主体性を大事にしている」なんて言わないほうがいい。本心と異なることを言い続けていると、部下は徐々に上司の言葉を信じなくなるので。
ただ、個人の人生にとって大事な“自由”を尊重するのであれば、「この人には本音を言っても、ちゃんと受け止めてもらえる」と思える関係性がどこかにないといけない。
会社の中に、そのような安心感があってもいいと思うんです。
評価を多様化すると、かえって不自由になりかねない
評価を上げようと思ったら、会社や上司に従属的になっていくはずです。そうして「会社に貢献し続けなきゃいけない」と思いながら働くのは、評価に依存しているので「自立」とは言えないかもしれませんね。
でも、それって裏を返せば、「あの人、感じ悪いよね」といった“感じのよさ”さえも評価対象になりかねない。これは普段の一挙手一投足が評価されるということです。
こんなふうに評価基準は多面的にすればするほど不自由になっていく面もあり、必ずしも自由な働き方にはつながらないように思います。
自分らしくいられる心地よさは、自立に近い状態
それを踏まえると、自立ってどこかで貢献しなくてもいいことが担保されていて、なおかつ、自分のやりたいことができる状態にかかわるのか……。
だから、あれかな。自立って「どれくらい、自分らしくいられるか」と関係が深いのかなって。もちろん、いつでも100%自分らしくいられるってことはないと思いますけど。
簡単に言えば、「居心地がいい」くらいの意味かなって思いますね。
あの急に変な話をしますが、僕は約2年前から名古屋駅前で着ぐるみを被り、募金活動をしているんです。
僕はこの活動に参加するためだけに、毎月少なくとも1回は名古屋に行っているんですよ。
誰にも頼まれていないし、僕がいなくても誰も困らないので、本来は行く必要がないんですけどね。
大学にいると「先生」として、自宅では「親」として振る舞わなきゃいけない。別にそれが苦痛なわけじゃないけれど、この活動に参加しているとき、僕は何者でもなくなるんです。
みんな僕のことを「梶谷さん」と呼んで、ほかのメンバーと区別せずに扱ってくれます。それがとっても心地いいんですよね。
その団体の理想に共感した人たちが集まって活動しているんですか?
でも、はっきりとした目的がないことが大事なんです。「何かを達成できる」という期待がない分、参加者は自分たちの活動を評価することも、評価されることもありません。
この場所にいるとき、いちばん素の自分でいられるので居心地がよく、幸せな状態に近いんですよね。
最悪な状態になってもいられる会社は、幸福ないい会社
そのように何かをするとき、みんながある程度参加できたり、何かしらの意見が言えたりする状態が大事なのかなと。
また、本人が希望することに対して、周りの人は「こういうやり方もあるよ」と情報交換をしていく。
その結果、たとえ失敗したとしても、本人に責任は問わないようにする。これが自立を目指せる環境なのかもしれません。
そこで、あえて責任の所在をあいまいにしてみる。すると、失敗してもみんなで「なんだかうまくいかなかったよね」で終わるので、次もみんなで頑張ろうとなるんじゃないかな、と。
失敗したい人なんていないから、みんなでさまざまな工夫をするようになり、物事がうまくいくんじゃないかな、と。
逆に、物事をきちんとしようとすればするほど、みんながしんどくなっていくようにも思うんです。
それを避けるために、一部の上司は部下に責任を押し付けたり、隠蔽したりするようになるわけです。
そのように「役割」と「責任」と「処罰」をセットにするから、みんながつらくなります。
貢献しないといけない、罰せられるかもしれないと思いながら達成される自立は、とても縛られています。だから、どこかで「まあいいや」と許されているような感覚をもつ必要があります。
存在意義を頑張って示さないといられない会社だと、それが果たせなくなったとき、会社にはいられなくなるでしょう。
ただ、「自分がダメになったときでも、この会社は見捨てないでいてくれる」と思える会社なら、みんなが安心しながら自立的に働けるだろうし、そういう会社にはずっといたいから、より頑張って働くのではないかと僕は思います。
執筆:流石香織 撮影:栃久保誠 編集:野阪拓海/ノオト
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執筆
流石 香織
1987年生まれ、東京都在住。2014年からフリーライターとして活動。ビジネスやコミュニケーション、美容などのあらゆるテーマで、Web記事や書籍の執筆に携わる。