インターン大学生の疑問
企業は就活生に「完成した個性」なんか期待してない──精神科医・熊代亨先生に聞く
就職活動の季節──。真っ黒いリクルートスーツに身を包み、真っ黒いバッグを持ち、真っ黒い髪をした就活生が街にあふれはじめました。男子学生は黒い短髪、女子学生は黒いまとめ髪。皆、コピーしたかのように、一律同じ格好に見えます。
その画一的な様相は「無個性」「没個性」と表現されることも少なくありません。その一方で、彼らはほかの学生との戦いに勝ち抜き、目当ての企業に入るために、自らの個性をアピールしなければ、とも考えています。
「わたしは◯◯サークルで活動をしてきて、◯◯を達成しました」「わたしは◯◯でバイトをし、売上を◯◯%まで伸ばしました」など、テンプレート化したPRではありますが、「他とは違うわたし」を演出しようとするのです。
個性と無個性との間で揺れ動く就活生たち。彼らは個性をどうとらえ、どう出していくのがいいのか――。ブログ「シロクマの屑籠」が人気で、著書に『「若作りうつ」社会』『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』などがある精神科医の熊代亨先生に、サイボウズ式インターン・伊藤麻理亜がお話を伺いました。
熊代亨先生。精神科医。1975年、石川県生まれ。信州大学医学部卒業。
人気ブログ『シロクマの屑籠』にて現代人の社会適応やサブカルチャー領域について発信している。著書『ロスジェネ心理学』(花伝社)、『「若作りうつ」社会』(講談社現代新書)
「就活=リクルートスーツ」は学生と企業の共犯関係の結果
これまで就活をしてきて何度も感じたのが、どうして私たちは無難なリクルートスーツを選んでしまうのか、ということです。
多様性やダイバーシティといった概念や考えかたが社会に浸透し始めた一方で、学生は「理想の就活生像」に自分をあてはめようとし、企業も「理想の就活生」を採用しようとしています。この息苦しさって何なんでしょう。
学生と企業のどちらかが悪いのではなく、学生と企業との間に一種の共犯関係がある、と私は思っています。
学生がリクルートスーツを着ていれば、少なくとも「わたしには(入社を希望する企業と)コミュニケーションする姿勢があります」「意気込みがあります」と言葉にせずとも伝えられます。企業側も最低限コミュニケーションをとれる学生をとりたいから、そこは見ているでしょう。
スーツを着ている=本当の意味でコミュニケーションできるかどうかはさておき、コミュニケーションする“意志”を確かめるひとつの基準にはなりますよね。
1990年代はどうでしたか? いまとは全然違いますかね。
ええ。当時は金髪や茶髪、ロン毛で就活している人も普通にいたんです。木村拓哉さんや江口洋介さんが出演していたドラマでも、ロン毛や派手な髪色はあたりまえだったなぁ。伊藤さん、ロン毛ってわかります?
ネットやテレビで見たことはあります(笑)
ですよね(笑)。90年代の就活は「リクルートスーツ/黒髪」のように、いまほどガチガチに決まっていなかったんですよ。この10〜20年で収斂進化した結果、「リクルートスーツ/黒髪」が“テンプレ”みたいになったのだと思います。
世の中をウォッチし続けてきた私の目には、この「無難を選ぶ」状況は、世相や現代人に求められる資質を反映しているようにみえてなりません。
格好だけではなく、面接においても無難な、普遍的によしとされるテンプレ的な受け答えを選ぶ学生は多いですね。「バイトでリーダーを任されていたとき、バイト仲間をまとめ、売上を◯倍にしました!」とか。
本当は、恰好も受け答えも、もっと冒険する選択肢はあるはずですよね。皆さん、多様性だとか個性だとか、そういったことを口にしているわけですし。
それでも冒険する人が出てこないのは、自己アピールの気持ちよりも「落とされたくない」「企業に選ばれないとダメだ」といった不安のほうが上回っているからではないでしょうか。
テンプレからはみ出して、かつ「わたしは御社で活躍する人間です」とアピールするのは難易度が高いですよね……。
だと思いますよ。でも、地方在住の私からすると、若い人が多様性や個性を自己主張する程度は、昔に比べて下がってきているように感じてもいるんです。
個性をリソースで買う時代がやってきた
そうなんですか!? 東京を中心にわたしの周りだけなのかな。
地方のそれほど偏差値の高くない大学に通う学生が、就活をする過程で多様性や個性といった意識をどこまで持つのか、私は疑問に思いますね。
地方の郊外って、どこに行ってもだいたい同じような風景じゃないですか。そういう均一な空間でずっと過ごしていると、価値観や文化が似たり寄ったりな人も多く出てくるわけです。
あえて感じの悪い言葉を使いますが、均一な郊外では“金太郎飴”が量産される、みたいな話です。社会空間や構造に量産型の人間をつくるシステムがある、ともいえます。多様性や個性、自分らしさといった要素は、彼らの意識の表層に浮かんでいないのでは、と思います。
では、東京の学生を見ているとどうですか?
東京で若い人とのオフ会に参加すると、彼らが自分らしさや自分のキャラを表現するために、意識や頭を使っているなぁ、と感じます。90年代みたいで、懐かしさをおぼえます。
というのも、2000年代には自己実現や自分らしさに悩む20代の若者が、しばしば外来を受診していたんですが、2010年代以降はそういう悩みに言及する若い患者さんが、がくんと減っていると感じているからです。いるとしたら、たいてい30代後半のおじさん症例ですね。
話を戻すと、東京に比べて、地方で個性の自己表現にこだわる若者に出会う機会は格段に少ないです。伊藤さんは就活をするなかで、知名度があまり高くない地方の大学出身者と出会うことはありました?
思い返してみれば、ないかもしれません。むしろ、自分より偏差値の高い有名な大学の子と出会う機会のほうが多かった気がします。
そうだと思ったんです。伊藤さんの目に映る風景は、「東京的な何か」なんだとわたしは予想しました。地方の若者と、東京で文化資本・経済資本に恵まれた家庭に育つ若者とで、だいぶ違いがあるんだと思います。
やっぱり東京人のほうが、個性や自分らしさを表現するのに断然有利なんです。個性はお金や時間、文化資本など、リソースで“買う”時代になってきているのではないでしょうか?
おもしろいですね! でも、たとえリソースがあったとしても、就活で個性は出せていない。あくまでも気の置けない人との日常生活でしか、出してないと思うんです。
それでも「リア充なSNS」を提示して、私にはこれだけ人間関係やコネがありますって、個性をアピールするわけですよね。企業側はそれを確かめるわけですが、多様性や個性というお題目を口にしながらも、結局採用するのは無難な人。
わたしはこのダブルスタンダードに抵抗感があるんですよ。そのあたりが、伊藤さんと問題意識が重なる部分だと思います。
企業は学生を選ぶ側なんですから「うちは◯◯な人しかとりません」と強気でいってもいいものだと思うんですが。
本当はそれでいいと思います。でも、そうならないのはなぜか、私なりにいろいろ考えてはいるんですが、たとえば、企業が真に必要としている個性というのは、学生がまだ持っていないものではないでしょうか。
就活時の学生は個性がない、ということですか?
いえ、学生が持っているのは、未完成の個性ということです。私自身の20代を振り返って思うんですが、20代前半でできている個性って、たいして尖った個性ではないと思います。この時点ではそんなに個人差はない。なかには鋭利なガラスのような個性を持つ20代もいますが、そういう「若さゆえの尖りっぷり」は、歳を重ねるにつれて丸くなっていく人が大半ではないでしょうか。
一方、30〜40代になったときにできている個性は、千差万別で、かなりの個人差があると思います。そう考えると、企業が学生さんに期待しているのは「可能性としての個性」であって、「完成形としての個性」ではないんじゃないかと。かつてのわたしもそうでしたが、20代の年頃でそこまでは汲み取れないでしょうね。
たしかに。企業側と学生側の「個性のとらえかた」にギャップがありそうです。学生は「現時点でできあがった個性を見られている」と思っていますから。
社会には個性、無個性どちらの要素も欠かせない
ブログに、「個性はハイリスク・ハイリターン」と書いたことがあります。学生が個性的であろうと尖るのも、企業が尖った学生を選ぶのも、どちらも勇気がいることだし、コストがかかるものだと。だから、企業は尖った学生を採用しないんだと思います。
学生もそこは空気を読んでいて……。だから就活のときにリクルートスーツを着るんですかね。
ええ。それでも、いまの方法で採用できる人材は限られている、と企業側も薄々感じているはずです。サイボウズ式の記事「あいまいな人材の定義が新卒採用をダメにする」で、長続きする人を採用できるか否かは、面接官次第で決まると書かれているのを読んで、共感しました。
採用が面接官次第だとすると、テンプレじゃない部分の、人としての良し悪しや数値化できない何かを見抜く必要性がある。それって、かなり属人的な領域だと思うんです。企業側に優秀な面接官を配置できる情熱やリソースがあるかどうかの問題もあるでしょうが、現時点ではすごく難しいなと思います。
うーん……ここにきて、就活で個性を出す必要はないのかも、と感じ始めました。
実はないのかもしれません。そうはいっても、若さゆえのデコボコした個性は、そこはかとなく学生さんに漂っていると思います。そういった要素を好む企業、好まない企業があるでしょう。
多様性や個性を必要としている、いわゆるクリエイティビティを重視する類の企業は、そういったデコボコを個性の萌芽のようにとらえ、すくいとろうと努めているはず。逆に、均質化した人材を集めたい企業は、そうはしない。
個性的ではない人材を求める企業は、今後も存在し続けるのでしょうか?
わたしはそうであってほしいと思います。逆に「個性的な人じゃないと雇わない」って企業しかなかったら、つらすぎませんか(笑)? そうなると誰もが「自分は個性的であらねばならない」とがんばる必要が出てきます。
たしかに。「〜でなければならない」となると、しんどくなります。
多様性や個性を大切にする企業もある一方で、テンプレやマニュアル通りに動く、際立った個性のない人たちも採用され、働ける場所が、これからの社会に残っていてほしいとわたしは思います。
個性の差を認めないと、多様な社会ではなくなりますよね。
無個性だらけの社会も、個性、個性と声高に言うばかりの社会も、どっちもよろしくない。どちらも存在していてほしい、ということです。
学校で生成された「枠の中の個性」という概念
もうひとつ、熊代先生に質問したかったことが。ここまでさんざん、多様性とか個性の話をしてきてアレですが、それでも「普通でありたい欲求」が自分の中にあるんです。この矛盾って何なんでしょう(笑)?
それは就活において、ですか? それとも、就活以外でも?
就活に限らず、基本的に「普通でありたい」と願っているような気がします。「枠内の個性」しか認められていない、という思いが土台にあって。周りのみんなもそうなんじゃないでしょうか。
たとえば、わたしは漫画が好きなんですが、わざわざ大学の友達に明かさなくてもいいかな、とか。就活においても、理想とされる就活生像と異なる部分を持っていても、わざわざ口にしなくていいや、とか。
筋金入りの日本人だ(笑)。おもしろいですよね。多様性や個性と言っている人が、同じ口で「わたしって普通だし」と言うわけですから。
「普通」というのはある種の免罪符なのかなと思います。「普通でないと」とか「テンプレ通りにしないと」といった世相や社会病理が染み込んでいるのではないでしょうか。ちょっと意地悪な質問していいですか?
はい(笑)
伊藤さんが思う「普通じゃない人」って、どういう人ですか? みんなが「普通か」「普通じゃないか」を意識してるってことは、必ず「普通からはみ出した人」の存在が脳裏にあるはずなんです。「普通でありたい」という日本人的な意識が、「普通からはみ出した人」の存在を逆照射しているように思います。
普通じゃない子かぁ……
(しばし悩む)
……。わが道を進むタイプの子なら、身の回りにいますね。いい意味で普通じゃない、というか。
わたしは「本当はそれだけじゃない」と思っています。「普通からはみ出した人」というのは、社会に適応できずに学校からドロップアウトしていった人ではないか、と。さっき伊藤さんは「枠の中の個性」とおっしゃいました。20代前半にしてここまで深く、普通か否かが刻印されている背景には、普通か否かを選別するプロセスが過去にあったと思うんですよ。
それが学校、だと。
学校こそ、「枠内の個性」しか認めない、最たる空間ではないですか? 本当の意味で普通じゃない人は、その相当数が中高のどちらかで、空気の読み合いができなくて、コミュニケーションのふるいにかけられて脱落していきます。枠からはみ出した個性の大多数は、不登校を経験して望まない職に就いて……というルートをたどるのではないかと思っています。こう考えると枠内の個性の話と就活の風景は一致していますよね。
そう考えると、矛盾はあるものの、就活で個性を出さないというのは、ある意味で間違いではないのかもしれませんね。
社会全体の話はともかく、個々の就活生の事情に即して考えるなら、それでいいと思います。その人にとって一番望ましいことをやるのがいいですから。
だから、個性にこだわりのある人は危ない橋を渡ってでも、クリエイティビティにこだわった企業をセレクトすればいい。逆に、平凡でも手堅くありたいなら、公務員やカタめな企業を選べばいい。
まぁ、でも生きる時代は選べませんから、いまをがんばるしかないですね。身も蓋もない結論になってしまいましたけど(苦笑)。
がんばります(笑)。本日はありがとうございました!
熊代亨先生がこの取材を受けて執筆された記事「「枠内の個性」とその行方 - シロクマの屑籠」もあわせてどうぞ。
文:池田園子/イラスト:マツナガエイコ
就活に「こうあるべき」なんて、ないらしい。 | サイボウズ式SNSシェア
執筆
撮影・イラスト
松永 映子
イラストレーター、Webデザイナー。サイボウズ式ブロガーズコラム/長くはたらく、地方で(一部)挿絵担当。登山大好き。記事やコンテンツに合うイラストを提案していくスタイルが得意。