ブロガーズ・コラム
自立は万人に必要? 昔ながらの「腐れ縁」や「しがらみ」も大事では?
サイボウズ式編集部より:著名ブロガーによるチームワークや働き方に関するコラム「ブロガーズ・コラム」。今回は熊代亨さんの「自立」に関するコラムです。
前回のコラムで、「自立の正体は上手な依存」と書いたら、家内に「でも、あなたの依存はあまり上等じゃない」と言われた精神科医の熊代亨です。
だからというわけではありませんが、今回は、「そもそも、自立ってそんなに素晴らしくて、みんなが目指すべきもの?」について考えてみます。
現代社会では、個人の自立は好ましいこととされ、自立を目指すのはほとんど常識ととらえられています。前回の記事では、そのためにも複数の相手とギブアンドテイクな関係を成立させるべし、バランスのとれた相互依存をつくるべし……と書きました。
しかし歴史を振り返ってみると、個人の自立が目指すべき常識になったのは、ほんの最近のことでしかありません。日本に限って言うと、自立という価値観が広まったのは大都市圏でも20世紀に入ってから、地方では20世紀後半になってからではないでしょうか。
そういう目線で考え直してみると、自立という価値観・自立というモノの考え方も、社会に適応するためのひとつの方便というか、少なくとも、聖典のようにありがたがるようなものではないように私には思えるのです。
個人の自立の行きつく先に、何があるのか
わたしたちは、自立を目指すのが常識となった21世紀を生きています。
ここ四半世紀の間に、個人として自立した生活は非常にやりやすくなりました。昔のように地域やイエといった“しがらみ”や“腐れ縁”に人生を制約される人は少なくなり、キャリアアップのために転居や転職を繰り返す生き方が珍しくなくなりました。また、流通網やインターネットが充実しているおかげで、衣食住も娯楽も、大抵のことは他人に頼らずに済みます。
収入があって現代社会の約束事さえ守れるなら、これほど個人として自立しやすい社会は有史以来なかったはずです。
ところが個人の自立が常識になり、その価値観がメインストリームになったことによって、新しい問題が起こり始めています。
みんなが自立を常識とみなすようになり、不要な“しがらみ”や“腐れ縁”を避けて生きられるようになった結果として、たくさんの人が孤立するようになってしまったのです。
人気者が自立しやすく、不人気者が自立しにくい社会
前回の記事『「他人への依存」を否定すると自立できない』でも書いたように、望ましい自立の正体は“ギブアンドテイク”の成り立つような、ほどほどの相互依存です。しかしこれは、“ギブアンドテイク”を成立させられない人間には望ましい自立など望むべくもない、ということでもあります。
“しがらみ”や“腐れ縁”が希薄になった社会では、仕事だけでなく、プライベートな人間関係でも“ギブアンドテイク”がついて回るようになりました。経済面でも文化面でもメンタル面でも構いませんが、なんらかのメリットを提供しあえなければ人間関係は続きません。
「人間関係が“社会契約”のようになってしまった」とも言えるでしょう。ビジネスパートナーだけでなく、友人関係も、夫婦関係も、家族関係も、選び合った者同士が契約に基づいた期間だけ結び付くような、そういう性質を強めつつあります。
“しがらみ”や“腐れ縁”が当たり前だった社会ではめったに切れなかったはずの人間関係も、現代人は、選好と契約の精神にもとづいて簡単に切ってしまいます。
個人の自立が常識になった社会とは、選好と契約の精神にもとづいて人間関係を簡単に切っても構わない社会であり、と同時に、他人に人間関係を切られても文句が言えない社会でもあったのです。
他人にたくさんのメリットを提供できる人気者にとって、そのような社会は“ギブアンドテイク”がし放題の、最高の自立を実現できる社会でしょう。しかし、人気のない人、加齢や病気によってメリットが提供できなくなった人にとって、このような社会で望ましい相互依存――つまり自立――を実現するのは困難です。
「自立」は絶対的なものじゃない
こういった考え方は社会の常識になると同時に、みんなの内面にもしっかりと刻み込まれました。そのこと自体は、社会の変化に見合った望ましいものだとわたしは考えています。
他方で、わたしはときどき思うのです。
自立って、そんなにしなきゃいけないものなんだろうか?“社会契約”や“ギブアンドテイク”にもとづいた人間関係を追及した果てに、本当の幸せはあるのだろうか?と。
白状すると、わたしは“社会契約”や“ギブアンドテイク”の価値観、個人の自立という価値観をそこまで信奉していません。
そして、自立という価値観が広まったこと自体はよいとしても、自立という価値観が常識になり過ぎて、みんなの内面にこびりつき、精神科や心療内科でも「自立するための治療」を勧められるほどになると、これはちょっと辛いんじゃないかなぁ、と思ってしまうのです。
最初に、家内が「あなたの依存はたいして上等じゃない」と言ったエピソードを書きました。ときには夫婦喧嘩もありますし、通じ合えない部分もあります。2人の間には“しがらみ”や“腐れ縁”がすっかりできあがっていることでしょう。
それでも、夫婦として続いていること自体はとても尊く、ありがたいとも思っています。
友人関係にしたってそうです。完璧な自立からは程遠い、どこか不器用な人間同士が、ときには喧嘩することがあっても、なんとか付き合って“しがらみ”や“腐れ縁”を積み重ねていった果てに、“社会契約”や“ギブアンドテイク”では得られないエッセンスが生まれてくるのではないでしょうか。
“しがらみ”や“腐れ縁”も必要だよね
結婚式の誓いにもありますよね。
私達は、夫婦として、喜びの時も、悲しみの時も、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓います。
誓いは“しがらみ”や“腐れ縁”を生み出します。こういうのは、完璧に自立した個人には不要かもしれませんし、ときにはキャリアアップの邪魔になることすらあるでしょう。
でも、うまく言えないんですが、この誓いのような人間関係、それこそ“しがらみ”や“腐れ縁”を積み重ねるような人間関係によってしか救われない部分が、私達の心の中には潜んでいるように思えてならないのです。
自立した個人も、ほどほどの相互依存も基本的にはよいものです。が、絶対普遍というわけではありませんし、それだけに依って人間が生きているわけでもありません。
だからわたしがお勧めしたいのは、個人としての自立と、昔ながらの“しがらみ”や“腐れ縁”の折衷案のようなライフスタイルです。どちらがよいとか悪いとかではなく、両方あったほうがよいのではないでしょうか。
巻末コラム:自立の過去と現在
自立の過去から現在についてのトピックを、熊代亨先生に振り返ってもらいます。
欧米でも「自立」は常識ではなかった
個人が自立している国というと、日本よりも欧米諸国を挙げる人も多いでしょう。 個人主義に親しんだ歴史が長く、働く女性の割合も高い欧米諸国の人々は、“空気を読みあう”“村社会”と言われがちな日本の人々に比べて精神的にも経済的にも自立しているのかもしれません。 ですが、その欧米諸国にしても、大昔から個人が自立していたわけではありません。 中世~近世のヨーロッパの生活を書き綴った本を読むと、昔の欧米諸国の人々は、自立とは程遠い、ドップリとした相互依存のなかで生きていたことがみてとれます。 昔の人は、安全に暮らすにも、働くにも、衣食住を手に入れるにも、近隣同士で強く結びつかなければなりませんでした。比較的自立していた商人達ですら、ギルドや同胞団体に所属し、助け合わなければ商売もままならない状態が長く続きました。 アメリカですら事情はさほど変わりません。建国以来、アメリカには個人の自立や自由を尊ぶ気風がありましたが、同時に、アメリカ人は地域社会・クラブ・教会といったものをハブステーションとして、お互いに強く結びつきながら暮らしていました。 なにしろ、インターネットもAmazonも、上下水道もスーパーマーケットもなかった時代の話です。街の住人同士の結びつきだけで生活は完結しましたし、また、そうしなければ生きていけない状況が長く続いていたのです。 そんな時代の生活は“しがらみ”が強く、“腐れ縁”に悩まされることも多かったでしょう。ですが、そうしなければ生きていけなかった以上、人々は“しがらみ”に慣れてもいたでしょうし、そもそも、彼らにとっての自立と現代人にとっての自立は、ニュアンスも程度も異なっていたと思われます。
思想と生活空間が生み出した「個人の自立」
では、いつ頃から個人の自立が芽生えて、みんなに広まっていったのでしょうか。 きっかけのひとつは、活版印刷の発明でした。印刷された聖書が流通したことによって、みんなで神父の説教を聴くのでなく、1人で聖書が読めるようになりました。王侯貴族や教会が独占していた知識、それと、「1人で読む・考えるという習慣」が、近世ヨーロッパでは少しずつ広まっていきました。 そうした流れのなか、ロックやルソーといった思想家が登場し、個人が個人として生きる社会のヴィジョンを説きました。彼らが活躍したころには「1人で読む・考えるという習慣」を身に付けた市民が都市部にはそれなりいましたから、新しい思想として受け入れられる下地はできていたのでしょう。 それでも、本を読んだり買ったりできる市民はまだまだ少数派でしたから、こうした変化が浸透するには長い時間がかかりました。 それに加えて、産業や生活空間も個人の自立を促す方向に変わっていきました。 かつては仕事も衣食住も近隣同士で助け合わなければ成り立ちませんでした。 ところが、主要な産業が農業から工業へ、さらに情報産業へと変わっていくなかで、仕事は、近隣同士で助け合うような性格から、個人それぞれが能力を発揮し、キャリアアップを目指すような性格へと変わっていきました。 もちろん、近現代の仕事も人と人が助け合わなければ成立しません。ですが、助け合いとは昔のような“しがらみ”や“腐れ縁”をベースとしたものではなく、“社会契約”や“ギブアンドテイク”をベースとしたものへ、選び合った者同士が契約に基づいた期間だけ助け合うような性格のものへ変わっていきました。 生活空間にも大きな変化がありました。上下水道が整い、家族それぞれがプライベートな時間を過ごせる個室を備えたマンションやニュータウンが、大都市から地方へと普及していきました。交通機関が充実し、スーパーマーケットやコンビニの揃った現代の生活空間では、収入さえあれば1人暮らしも簡単です。 このように、「1人で読む・考えるという習慣」にしても、仕事や生活にしても、個人の自立を成立させるための基盤は最近になってようやく揃ったもので、太古の昔からあったわけではないのです。
「自立」は病院まで追いかけてくる
個人の自立に疲れ果てて、メンタルヘルスを損ねて精神科や心療内科を受診しても、自立という価値観は追いかけてきます。 精神科や心療内科は、“しがらみ”や“腐れ縁”を提供してくれる場所でも、一方的な依存を良しとする場所でもありません。治療者と患者との関係は“社会契約”に基づいていて、保険診療であれ、自由診療であれ、そういった“ギブアンドテイク”な性質を帯びています。 ちなみに、精神科への通院にかかる費用を減らしてくれる公的制度には、その名もズバリ「自立支援医療」という名前がついています。建前としては、精神科や心療内科への通院は「自立していただくため」のものなのです。この名前に疑問を感じる人はあまりいないかもしれませんが、それは、自立という価値観があまりにも浸透していて、常識になり過ぎているからだとわたしは思っています。 「自立を目標としてメンタルを治療する」という構図は今に始まったものではありません。アメリカの社会学者が著した『心の習慣 (ロバート・N・ビラー他 みすず書房、1991)』によれば、アメリカにおけるカウンセリングの根底には、“社会契約”や“ギブアンドテイク”の精神があるのだそうです。この精神は日本の精神医療にもある程度受け継がれているようにみえます。
健康な人間は、感情を発見したら次には価値観を明確化し、自己実現に向けて戦略的に行動する。これが「健康な」人間の生き方である――つまり私たちはみなこんなふうにして生きなければならないというのである。これは経営学の教科書に載っている意思決定についての記述と大差ないもののように思われる。 『心の習慣』から
精神科や心療内科は、自立に疲れた人のメンタルヘルスの回復には役に立ちますが、自立という価値観から私達を解放してくれるわけではありません。
イラスト:マツナガエイコ
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撮影・イラスト
松永 映子
イラストレーター、Webデザイナー。サイボウズ式ブロガーズコラム/長くはたらく、地方で(一部)挿絵担当。登山大好き。記事やコンテンツに合うイラストを提案していくスタイルが得意。